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「ん……」
朝日が眩しくて、目が覚めた。
まだ瞼が重いが、茅葺きの切れ目から差し込む光が温かい。
こんな天気のいい日にのんびりと寝ているわけにはいかないだろう。
「……そっか、ここ、家なんだっけ」
自問自答。思い出して、布団から這い出る。
部屋には自分一人だった。真っ白な胴着みたいな服を着ている。
布団の隣には僕の着ていた服が畳んであった。ボロボロの布切れみたいになっていたけれど。というよりも、そこに突っ込むべきではなく。
……まさか、着替えさせて、もらった、とか。
一瞬にして、のんびりとしていた頭が覚醒する。
顔が火照ってきて触らなくても赤面しているのが分かった。
想像するだけでこの場から消えたくなる。いっそ、彼女たちを振りきって、そのまま旅を続けていればよかったとも思った。
このまま眠ってしまおうかと考えたが、いくらなんでも他人の家に転がり込んで置いてそれはないだろう。恥ずかしい気持ちを隠せないまま階段を一段一段降りていく。
一階にも誰もいなかった。
この家の住人は出かけてしまったようだ。
対角線上にある玄関からは、木洩れ日のような白銀の光が飛び込んできている。つられてそこから外を覗いてみた。
「うわぁ……っ」
今まで見た、どんな絵よりも美しかった。
幻想の中でしか見られないようなほど、まさに、最高の景色というに最も相応しいと思うくらい壮大な自然の景色。
少し離れたところには丘を挟んで海が広がっている。銀色に照り返す水面は、夕方になると真っ赤に燃えるのだろう。これなら、水平線から太陽が現れたり沈んだりする光景を毎日観ることができそうだった。
彼女はこの場所を村と呼んだ。
本当に、ここは、村だった。
平面の場所は限りなく少なく、かろうじて平面の場所には家が建てられている。斜面には畑や田んぼ、また、牛、馬などが放牧されており、のんびりとした時間が流れていた。
その家だって数えるくらいにしかない。点々とその平面だけにあった。
一面緑に囲まれていて、草原と森林が周りを覆い尽くすように広がっている。豊かな森からは小鳥の囀りが空へと翔んでいく。
コロナたちの家と次の家の間には小さな川が流れていた。
そこに、腕と足をまくって服を洗っている少女の姿がある。
どうやら、コロナは洗濯をしているらしい。
あまりに美しい景色が、先ほどの気恥ずかしさを大きく上回って、そんな些細なことなんてすっかり忘れていた。
「コロナ、おはよう」
「あ、ライルさん。おはようございます」
振り向いて、川から上がってくる。
洗濯物をぱたぱたとはたいてカゴの中に入れた。
「もう少しで朝食ですから、無理をなさらず、家で待っていてください」
「ううん、だいぶ治ったから。色々とありがとう」
「いえ、大したお持て成しすらできなくてごめんなさい。すぐに終わりますから」
「まだ起きたばっかりで、あんまりお腹空いてないから、気にすることは……」
なんというか、すごい図々しい言葉しか出てこない。
幼いころからの、ある一種の、クセ、だった。
しかし、そんなことを彼女はまったく気にしていないように見える。
「手伝うよ、少ししかできないと思うけど」
「無理しなくても……」
「無理なんてしてないよ」
世話ばかりしてもらって、なにもしなくてもいいと言われてそのとおりにするのは、単なる穀潰しとしか言いようがない。
けれど、確かに彼女の言ったように、無理をしていないわけではない。
しかし、敢えて手を貸したいと思ったのには、もちろん、意味はある。
彼女はちょっと考え込んだあと、申し訳なさそうに言った。
「……あの、なら、ティアの面倒を見てあげてくれませんか? あの子、たぶん、崖のほうから海の景色を見ていると思いますから。……いつも、ひとりですから」
最後の言葉だけ、少し陰った声。
どうして、と問う前に、くすくすと笑い出してしまう。
「では、朝食の用意が済みましたら呼びに行きますから、それまでお願いできますか?」
「うん。本当に、ありがとう」
「いいえ」
くすくすと彼女は笑って、崖に面しているティアがいるらしいその場所を説明してくれた。
コロナたちの家から川に向かう方向とは逆方向だ。山を下っていく途中から脇道に逸れていくとあるらしい。
恵まれた自然の中を歩いていく。
揺れる草。舞い散る名もない花。自然の香りを凪いだ風。
あらゆる意味で満たされた匂いを精一杯に嗅ぎながら、整地されていない自然の道を下っていく。
左手には大きな平原。その向こうには白い帽子を被った大きな山脈が連なっている。可憐な花が咲く花畑も微かに見えた。
右手には生い茂る森。深く重なり合って、森の奥は真っ暗だった。どうやら、僕はこの辺りに倒れていたらしい。
森の端に沿っていくとあると言っていた。
下の工業都市ではありえない光景だろう。まず、緑という色自体が大変珍しいのだ。辺り一面が緑だなんて夢でしかないと思っているに違いない。
切り立った崖から都市を見下ろすと、そんな言葉が頭の中に浮かぶ。
白煙が立ち並んでいるように見えた。
「……そっか。こことは、全然、違うんだな―――」
掻きあげられる髪を押さえる。
長く続く崖の折り目の部分に、彼女は座っていた。
服の衣装が旗のように揺らめいている。
「えっと、ティア?」
「あ―――……」
僕の顔を見て大変驚いたらしく、口をぽかんと開けたままだった。
草の絨毯を踏みしめながら近づく。
数歩先に行ったところには海が広がっている。海とこの山の真ん中に都市はあるのだった。貿易船が汽笛を吹きながらやってくる。
「隣、いいかな?」
「う、うん……」
だいぶ緊張してしまったようで、背筋がピンと伸びている。
「ここ、きれいだね……」
「……うん」
言葉に詰まる。
けれど、それは嫌な空気の滞りではなく、自然とできる波間のようだった。
そのまましばらく、二人で黙って空と海を見つめていた。
境界線は限りなく曖昧で、ぼんやりと雪化粧。雲が覆っている。
言の葉を風に乗せることはなかったけれど、少しだけ、この人見知りが激しい少女のことがわかった気がした。
「ライル」
「……え?」
僕の名前を呼ばれるとは思ってもいなかったので、ぽかんと間が開いてしまった。
「な、なに?」
「どこから、来たの?」
「なにが?」
「ライルが」
頬を僅かに膨らませながら訊ねる。
ずいっと迫ってきて、慌てて手を後ろに回して身を引いた。
「どこ?」
……これは、言っておくべきことなのだろうか。
少しだけ考えて、今は言えないことだから、適当にはぐらかせておくことにした。
「君とはぜんぜん違う、下の住民ではないけれど、下に住んでいたかな」
「そう……。下の、ひと、なんだ」
「うん。でも、それがどうかしたの?」
僕にのしかかってきた体をどかし、また、銀色に揺れる水面を見つめ始めた。
コロナの横顔とよく似ていた。
「わたし、下の人間はキライ」
「え?」
「でも、ライルは違うの。衣の匂いが。日向の香りがするから」
「彼らに会ったことがあるの?」
「お姉ちゃんが相手してくれるから、話したことはないけど、見たことならある」
「見ただけで嫌いになるひとの匂いって、どんなの?」
「んー……」
考え込んでしまう。
下の都市とはかけ離れているこの村にはない匂いなのだろうか。
「おなべに敷いて焦げた油の臭い……かな………」
「油?」
「うん。ヘンなボロボロであっちこっちが黒くなってる服なの。口に長くて白いものを加えて、『ここをどけ』とか、お姉ちゃんがなにもしてないのに怒るからキライ……」
……労働者、か。
都市に住む男たちは、大体がその発達した機械に関連した職に就く。
他の国にはない工業を常に追い求めているからか、いくらひとがいても足りないのである。生産に需要が追いつかないのだ。
ティアのいう油の臭い、それは染み込んだグリスや原油のにおいだろう。
資源や土地を求めて、こちらの平穏な村を開拓しに来たに違いない。
「また来たら、追い払ってくれる?」
「ぼ、僕が?」
「ダメ?」
またもや、ずいっと顔を近づけられて、同じように体を倒す。
「う、うん。やってみる」
その言葉に少女は大変嬉しかったようで、初めて笑顔を覗かせてくれた。
似ていないと思っていたけれど、やはり、姉妹には間違いない。
笑った顔は、どこか儚げで、いつか崩れそうで、とても懐かしかった―――