エピローグ  羽 ――Sapling Wise Flap with Little Wings in the Future――

「早くしないと遅刻しちゃうよー」
「いまいくー」
 家の中から答えて、急いで身支度を整える。
 鏡の前で櫛を使って髪の毛をセットする。女の子たるもの、急いでいてもこれくらいはしておきたい。
 ……あれから、私は鏡を見ることが多くなった。
 本当に小説みたいな話だ。鏡の中に吸い込まれて、色々な体験をしたなんて。信じてはいるけれど。
 戦いが終わりを告げ、その中でのゴールに辿り着いて、約束をして、そうしたらいつの間にか鏡の前にみんなして倒れ込んでいたのだった。最初に私たちと話した男の子たちはみんな先に帰ってしまったと、優くんに言われてほっとした。彼は、結構、優しい嘘を吐くことが多いから、本当かどうか実際のところは分からない。
 みんなが同じ夢を見ているという可能性がなきにしもあらず。夢は近くにいるとリンクするという話を聞いたことがある。
 でも、真実か否かはともかく、鏡の中の彼女は本当に淋しそうだった。だから、私だけでも見てあげたかった。独りがどのくらいつらいのかを知っているのは、なにも彼女だけではない。
 対面する私を見つめる。
 少しだけ、ほんの少しだけ、前より明るく見えた気がした。
「未波、優希くんが待ってるんじゃないの?」
「あ、うん。そうね」
「はい、お弁当」
 お弁当を持ったお母さんが、急かしながら渡してくれる。
 久しぶりに作ってくれたお弁当。いつもより仄かに温かい。
 鞄に大事に詰めて、言葉に幸せを詰めて、玄関を飛びだした。
「お父さん、お母さん、いってきまーすっ!」
「「いってらっしゃい」」
 二人の幸せそうな笑顔に見送られて、待ちくたびれているであろう大切なひとへと走っていった―――

 元気よく昔からの幼馴染みを連れて走っていく彼女たちを見つめていた。
「あの子、幸せそう」
 季節はまだ夏。
 終わりが近い、けれど、遠い夏。
 そんな暑い季節に、春のような穏やかな笑みを浮かべていた。
「そうだな。……なあ、今日、仕事に行くの、やめないか?」
「あ、奇遇だね。私もそう思ってた。でも、どうしてかな」
「幸せに満ちたあの子の顔を、いつまでも見たいと思ったからじゃないのか」
「あー、うんうん。我が子ながらかわいいもの」
 くすくすと笑っていた。
 何気ない笑いなのに、心の底から笑えている気がした。
「……お前、本気で親バカだな」
「お父さんも」
「……ぷっ」
 朝から玄関の前で夫婦二人笑っていた。
 さぞかし奇妙な光景であっただろう風景は、絵になるほどなにかに満ちたものであったに違いない。
「さて。そういうことで、今日はお父さんも手伝ってね」
「はいはい……」
 男を尻に敷くのは遺伝かね……。未波とおんなじだ……。変なところまで継がないで欲しいのだが……。心の中だけで呟いて、だが、不思議と嫌悪感はまったくない。
 空は晴れている。
 澄みきった水のように。孤独な子どもを抱き寄せる母のように。
 もう一度だけ、既に見えなくなった愛娘に呟いた。
「――いってらっしゃい。家で、待ってるから―――」

「あれ、夏姫?」
「あ、未波に優希くん。おはよう」
 満面の笑みと一緒に、気持ちのいい挨拶をしてくれた。
 明るい彼女らしい、オレンジ色の半袖と、鏡の中で着ていた、特にお気に入りだというロングスカートがとてもよく似合っている。
「おはよー」
「おはよう。あなた、なんで聖也の家の前に?」
「なんでって言われても、生徒会がないから、朝、一緒に行こうかなって」
 あー、なるほど。道理で顔が赤いわけだ。迎えに行くなんて初めてのことだろう。家も結構離れているし。その分、彼らにとって、一緒に帰れる時間が増えるからいいのだけれど。
「で、まだ出てこないのね……」
「未波もひとのこと言えないと思うけどー」
「し、失礼ねっ。あの時間でも遅刻しないんだからいいのよっ」
「でも、未波、いつも来るの時間ギリギリじゃ……」
「き、気のせいじゃないかしら」
 新学期が始まるまだ夏を残した季節だというのに、変な冷や汗が出てくる。遅刻したら両親になんて言われるか。遅刻とか、約束を破るのを彼らは嫌うのだ。
 彼らは必ず約束を守ってくれる。昨日だって、言ったとおりに帰ってきてくれた。いつものように、温かい笑顔と、考えて選んでくれたおみやげを抱えて。
「夏姫、時間はどうなの?」
「ええっと……。あ、あう……、ちょっと、まずい、かも」
 苦笑いを浮かべていた。生徒会長が遅刻というのは名義上悪いのだろう。
 私は優くんを見る。
 感づいたのか、にやりと悪戯っぽく笑って叫んだ。
「せいやー。早くしないと、夏姫さんが聖也のコト嫌いになっちゃうってー」
「え、ええっ!?」
 夏姫が考えてもないことを言われて、手を頬に当てて慌てていた。あたふたと聖也に弁明の言葉をしようとしているらしいのだが、言葉にならずにやっぱり困っていた。
 さすがに、このウソは夏姫にも可哀想なので、声をかけてあげようと思った瞬間、彼の家のドアが壊れるほどの勢いで開け放たれた。
「さっさと行くぞっ」
 聖也も相当焦っているらしい。服も整っていないし、髪もボサボサだ。
 そんな、いつもとは違う聖也を見て。
「うんっ」
 夏姫は、本当に嬉しそうに笑っていた。
 私の知らない聖也くんを見れて、また少し、彼に近づけた気がする―――
 あとから、夏姫がはにかんだ笑みを浮かべながら言っていた。
 知らないことは、それこそ無限にあるだろう。
 なら、その限りなくすべてに近いものを知るとき、その道筋は永遠であると言える。
 きっと、あらゆる意味で、聖也と夏姫は永遠なのだと思う。
 私たちも倣って追いかける。
 その途中で、灼けたアスファルトの陽炎か、彼女の姿が見えた気がした。
 立ち止まる。
 本当の彼女の姿は、最後に出会った私だけが知っている。
 白妙の羽衣を着た、天使のように美しい姿を。
 神さまが創り上げたかと思うほどの幻想的な羽衣。
 真っ白な羽根が折り重なっているみたいな、この世に存在しないほどの美しさ。
 彼女は、くすりと微笑む。
『難易度を上げて、お待ちしています―――』
 孤独を抜け出すために誓った約束は、やはり蜃気楼ではなかったようだ。
 そうしたら、もうあなただって独りじゃない。
 私たちはひとつの命だ。願うままに生きることはできないし、願わないことをすべて回避することもできない。そんな偶然が重なって、ひとりの時はあるかもしれない。
 でも、忘れないで。
 いつだって、同じ痛みを経験した私たちがいることを。
 ただ、温かなものを想い出すだけで淋しさは薄れていくことを。
「あ、そうだ……」
 ポケットにしまってある、別世界の浅瀬で拾った貝殻を渡した。
 胸に煌めく、同じ形の貝殻のペンダント。
 漣の音が聴こえる、夢幻の貝殻。
 お互いが輝き、同調するかのように虹色を紡ぎ出す。
「うん。また、みんなで遊びに行くよ。イーター」
『ええ。また、みんなで。未波さん』
 私たちは鏡の中の不思議な出来事みたいに笑った。
 揺らめいて景色に溶け込むように消えてしまう。
「どーしたのー。はやくー」
 少し前で優くんが待っていた。
 追いかけて、追い越す。
 すれ違いざまに彼の手を握って、学校への道を走り出した。
「行こっ」
 ……これっくらいは、許してくれるよね、優くん。
 ひとりで言い訳をしながら、空を羽ばたくように駆けていく。
 彼はちょっとだけ驚いた顔をしたが、すぐにいつもの顔に変わる。
「うん。ずっとね」
 ずっとの意味に気づいたのは、もっと先の話ではあるのだが―――

 太陽が影を取り去るように、遍く照らし続ける。
 そんな大地の上を、どんなにちっぽけな一歩でも歩いてゆく。
 私たちだけの、新しい季節の詩を唄いながら―――


 ―――それは。
    過去の涙を翼に変え、澄んだ空へと飛翔した―――
    祈りのような、ささやかな幸せと約束が綴る―――

    ――――若き、賢者たちの物語。

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