プロローグ 水精 ――Cross the Undine’s Precious Retrospections――

 魔法使いは隠者である、というのは随分と昔の話だ。

 人間と魔法使いは、似て非なるもの。外見は似ている――というか、同じであるが、魔法使いには必然的に魔力というのが備わっている。

 たったそれだけの、けれど決定的な違い。

 その違いを忌み嫌う者たちによって、互いの種族だけが住まうように世界は区切られてしまった。

 決して交わることなく、そのような種族がいるということすら忘れてしまうほどの永い時間。同じ種族だけで触れ合い、常識も違う独自の世界を築いていった。

 しかし、いくら隔離したとはいえ、生命であるのなら完ぺきではない。

 特殊なもので壁を形成していたようだが、あまりに永かった時間によって削られたらしい。

 唐突に、そのふたつの世界はひとつになった。

 両者は互いが離された理由を知らなかった。きっと、存在すら時間に流すために、書物に遺したり、伝承として語り継いだりさせることもなく、ただ自分たちしか住まうことのできない世界を象徴したかったのだろう。

 彼らは、違いがあることを気にしなかった。むしろ、違う種類の生命体がいることに喜んでさえいた。

 学びあい、世界を寄り添わせ、ふたつの世界を自由に行き来できるようにした。

 そして―――

「―――現状に至るというわけだ。人間と魔法使いが共存する世界にな。あくまで歴史学者の想像だが、壁が壊れたときの跡も残っているから、ほぼ間違いないだろう。その更に発展したものが、我が校のように、ふたつの種族が入り混じって生活するような環境だ」

 主だった内容はまったく覚えていないが、その歴史学の先生の最後の言葉だけが、妙に頭の中に残留している。

 退屈な毎日だ。同じことしか繰り返さない。そんな生活に飽き飽きする。

 そんなことを思いながら、教科書を鞄の中に詰め始める。夏休みの前日なので、今日の授業はこれで終わりである。

 連休の前には色々なものを持ち帰らなければならない。休みなのは結構だが、同じ席に座るのに、どうして机を整理しないといけないのかは謎である。

 みんなも大変だろうにな、と見渡してみると、ひとりだけ身軽な格好をしているひとがいる。なぜかというと、学校に教科書とかを持ってきていないからだ。単純明快である。

 目が合うと、大変なことを知っているにもかかわらず近づいてきた。

「なあ、未波。お前、鏡の噂、誰かから聞いたか?」

 いきなりわけが分からないことを言う。

 茶色と黒が混じったような髪の毛が目に留まった。普通はみんなただの黒髪なので、とにかく目立つ。背も大きいし、体つきもがっちりしている。赤のシャツと群青のジーンズという、ハタから見ればちゃらいやつだ。

「は? 鏡って、なんの」

 私は荷物を整理しながら、耳だけ彼に傾ける。それを説明することへの了承と受け取ったらしい。相変わらず、勝手なひとだ。

「優希が言うには、ある強い感情と意志を持ったヤツだけが、鏡の中に入れるらしいんだ。そんな噂だけど、ないか?」

 どこかの小説みたいだ、と私は頭の片隅で考えていた。ありきたりな設定で楽しくない。でも、優くんが言うなら、少しだけ本当のような気がする。ちらりと思ったが、振り返って呆れた顔を作った。

「バカね。そんなもの、あるわけないでしょ。それより、わたし、帰りたいんだけど」

「んだよ。ノリ悪いヤツだな」

「あいにく、興味が湧かないの。聖也はガキだから、そんなファンタジーを信じるのかもしれないけれど、わたしはオトナだから」

「あぁ、そーですか……。てか、その優希はどこにいるんだ?」

「あれ? さっきまで隣に座ってたのに……」

 隣の席にいないのを確認してから、廊下へと続くドアに視線を向けると、男の子にしては小さい身長の子が、ぴょこりとウサギのように現れた。

「おまたせー。ゴメンねぇ、ちょっとノド乾いちゃって牛乳買ってたんだー」

 フルネームを神月優希というクラスメートは、ふと気づくといなくなってしまう不思議なひとである。

 種族で分けると、彼は人間に位置するが、とにかく魔法に関する知識は教科書という枠を逸脱しており、魔法使いよりも魔法に詳しい。魔法学で学年一番は不動なのだ。それ以外の教科もかなり上のほうで、頭の回転はとても速い。もちろん、魔法使いではないので魔法を使うことはできないけれど、もし使えるとしたらすごい存在になると思う。

 また、今、私の隣にいるひとは、萩原聖也という。優くんとは正反対で、魔法使いではあるものの、成績は常に下のほう。この間のテストではビリだったらしく、先生に呼び出しを受けたのだとか。

 私たちは家も近く、親も学生のころからの知り合いだったので、幼馴染みという関係にあたる。かなり小さいころから一緒に過ごしてきたためか、隠し事をしてもすぐに見抜かれてしまう。けれど、そこは黙っているのが当然だという暗黙の了解も、当然のように成り立っていた。それくらいの仲である。

「今から帰るところなのに、変わってるわね、あなた。……それより、わたし、おなか空いちゃったから早く帰ろうよ」

「うん、そだね。聖也は夏姫さんと一緒に帰るの?」

「いや、あいつ、今日は生徒会があるってさ」

「夏姫、いつも大変だものね……」

 クラスメートに連休時のお約束の言葉を交わして、横一列に並んで帰路を歩く。なぜか、いつも私は男の子二人に挟まれているので、背がとりわけ低く見えてしまう。

「そういえば、優くん、鏡ってなんのコト?」

「え? 聖也から聞いてないの?」

「呆れて、途中で聞く気が失せちゃってね」

「あ、そっか。確かに、聖也というひとが最初の説明というのが間違いだったかも」

 あはは、とさり気なく辛辣なことを言う。でも、こんな会話も慣れたもので、そのまま嫌味はスルーされる。

「その鏡はね、入ったら一生出れない迷宮に辿り着くんだって。日常に退屈しているひと相手に作られた魔法用具で、本来はゲーム感覚で遊ぶものだったみたいだよ」

 ストローをちゅうちゅう吸いながら言う。なんだか、小さい子のようだ。

 魔法用具というのは、魔法使いが自分の手元に置くものとして創造されるものだ。

 魔法を使うにあたって、詠唱を刻んで唱える必要がある。難しい魔法と言われるものは、詠唱が長いものとイコールである。

 その詠唱を大幅に省略したり、魔力を一時的に増幅させたりするのに魔法用具を使うのが多いのだが、そのひとはただの暇つぶしに作った。

 だが、多くの魔力を流し込みすぎて、自分の意思より遥かに強力なものを作ってしまったようで、このような不吉な噂が漂う鏡になってしまったらしい。

「それで、その鏡、今はこの学校の実験室に置いてあるみたいだよ」

「よしっ、じゃあ」

「却下。入るんなら、ひとりで入りなさいよ」

「なんでだよ。ゲームはたくさんのひとと一緒にやるから楽しいんだろ」

「あなたは常に孤独でしょう」

「どこが」

「顔」

「顔で孤独って決まんのか」

「少なくとも、わたしは顔であなたを疎外するわ。きっと、みんなもそうでしょうよ」

 わざとらしいため息をついた。諦め気味にもう一度誘う。

「だから言ってるでしょ。わたしはそんなのに興味ないの」

「じゃあ、なんで訊いたんだよ」

「中途半端に話を聞きそびれたからよ。それ以外に理由はないわ」

 ……実を言うと、そういった話が嫌いではなかったりする。

 夢を見るというのは子どもみたいで、どこか危うい楽しさがあるから。太古の書物を読んでいる時だって、頭の中で空想を広げ

ながら読んでいるときだって、内緒だけれど、あったりするのだ。

 なんというか、幻想というのに惹かれる性質らしい。退屈な日常を飛び越えて、本の中に入ることができたらと何度思っただろう。

「それじゃあ、ここで。またね」

「うん、ばいばい」

「じゃーな」

 聖也の家は、私の家からもうひとつ先だが、優くんはもう少し先に行ったところだ。なので、最初に別れるのは私である。

 玄関に重たい鞄を下ろして、誰もいない家に「ただいま」の挨拶をした。

 両親は共に有名な魔法使いで、人間の手だけでは対処しようがない事件への手助けに行っている。時々、というか、結構、彼らは私を置いて手助けに出かけてしまうのだ。

 こういった些細な形で、人間と魔法使いは暮らしている。どちらが優れているとか、劣っているとか、そんな考え方をしているひとはいない。困っていれば、種族間など関係なく手を差し伸べる。当たり前だけれど、当たり前でなかったなら、それはどんなに哀しいことなのだろう。

 適当に夕食を済ませ、宿題を早めに処理する。あとになにがあるか分からないから、なるべく最初のほうに終わらせてしまうことにしているのだ。

 お風呂に入って、髪を乾かし、あとは寝るだけだと思っていた矢先。

 ―――おーい、未波。

 窓から聞き覚えのある声がする。寝る前にこの声は、どうもよくない。

 だが、無視するわけにもいかず、窓をからりと開ける。

 予想どおり、彼が窓から乗り出して私に声をかけていた。

「なに?」

「や、学校行こうぜ」

 既に寝る時間だというのに、彼は私服姿で、私の答えを待たずとも行く気満々だ。

「なに、それ。わたしは行かないって言ったでしょ」

「じゃさ、俺が中に入るまででいいから、ついてきてくれよ」

「あなた、ひとりで学校も行けないの? わたしが入らないのなら、行く意味はないじゃない。それに、もうお風呂も入っちゃったし、外に出たくないの」

「そう言わずによ。すぐ終わるって。な?」

 彼がここまで粘るのは珍しい。いつもは、私が数回断るとそれきりなのに。よほど興味があるのだろう。

 ……まぁ、彼が行きたいというのを口実にすれば、私がこういった話が好きなのを隠すのにも言い訳が利く。仕方がない、ついていってあげよう。

「……仕方ないわね」

 自分でも子どもっぽいことをしているとは思いつつ、そんなことを呟いていた。

「わたし、着替えなきゃならないから、先に下で待ってて」

「んじゃ、先行ってるなっ」

 元気よく窓を閉めて、あっという間に見える狭い空間から消えてしまった。

「……厄介ごとに、ならなければいいけど」

 パジャマから私服に着替えなおして外に出る。

 二人きりで満天の星空を地図に歩き始める。涼やかな風が髪を小さく撫でていく。夜だというのに晴れ晴れとした気持ちで、歩幅を一生懸命あわせながらついていった。

 私は時々、夜にひとりで散歩に出かけるときがあった。

 月に向かって歩いていけそうな道を探したり、昼では見つけることができないきれいな場所を見つけたり、そんな小さな発見を幸せに思っていた。けれど、今はそんな気分ではないような、いつもどおりの散歩に酷く似ているのに、どこか違う気がする。

 そんなことをぼんやりと思いながら、景色が違う学校に着く。心地よい道とは違い、やはり夜の学校というのは気味が悪い。

「優希、実験室って言ってたよな」

「うん、言ってたけど……。聖也、優くんは呼んでないの?」

「あいつも電話で誘ったんだけど、面倒くさいから行かないって」

「……優くんに断られたクセに、どうして、わたしにはあんなにしつこかったのよ」

「別に、理由なんてねぇよ」

 それきり、聖也はなにも言わない。

 学校というのは無用心だ。敷地内に入っても警報も鳴らないし、警備員がいるわけでもない。本当に、無人の空間。

 こっそりと裏口から入る。金銭目当ての泥棒みたいだが、侵入するにはここしかないようだ。

 扉を開けた幽かな音が廊下に木霊する。

 月の蒼い光が窓から斜光しており、幻想的故に恐怖が立ち込める。煙のように、音も立てずに近づいてくるような錯覚。

「ひとつ上の階だな」

 独り言を零す。もしかしたら、私のことを気にしてくれているのかもしれない。だって、そんなのはここの学校の生徒なのだから知っている。

 階段を上がっていくにつれて、氷の上を歩いているみたいな音がする。

 上がりきって、すぐ右手にある部屋。そこが目的地だ。

「入るぞ。……怖いか?」

「バカ言わないでよ」

 実験室のドアをゆっくりと開ける。冷たい空気が部屋の中から外へと逃げていくような気がした。どうしてか、妙な寒気がする。怖いものには強いはずなのだが、本能的に恐怖を感じ取った。

 聖也の服の袖を掴んで引き寄せる。囁くような声をかろうじて絞り出した。

「……ねえ、この部屋、なんかおかしいわよ」

「そうか? なら、ここまでついてきてくれればいいから、お前は帰っていいぞ」

 なんだか、その言葉が癪に障る。負けず嫌いな私は、恐怖なんてとっくに通り越して言い返した。

「いやよ。鏡、せっかくなら見たいもの」

 袖から手を離して、今度は私が先頭に立つ。やれやれ、と軽く笑ってついてくる。

 数々の実験道具が並んでいた。薬品や、調合するための特殊なもの、組織図――。それらを通り越して、準備室へ。

 大津波の前の浜に立っているかのような、不思議な静寂感に満ちている。淡い光に包まれた、時が停止している準備室。

 そこには、見たこともないほどきれいな鏡が、確かな存在を持って佇んでいた。

 黄金の額縁が、より一層存在感を顕にしている。

 雪のように冷たく、水晶のように輝く虹の光、硝子のように張り詰めた空気。

 噂の通り、吸い込まれてしまいそうなほど、鏡は透き通っている。

 ただ、私たちの姿を正反対に映しているだけなのに、鏡の中の私は、より奥へと走りたがっているように見える。二度と戻ることのできない、永遠の迷宮に。

 へえ、と彼は感心した様子で、鏡の周りをあちこち移動しながら観察している。

 本当に、鏡を見に来るだけだった気持ちは、けれど、鏡に魅了された私に帰るという選択肢はなくなっていた。

 見ることだけでは飽き足らなかったのか、今度は鏡に触れた。否、触れようとした。

 霧に触る虚無感を貫いて、反射している自分の手が重なり合おうとする。その手は、僅かに震えているように見えた。

「これ、なんともないぞ」

「そりゃ、そうよ。―――え?」

 瞬間、私は、見てはいけないものを見た。

 ぞぶりと、形容しがたい音を立てて、彼の手が鏡に埋もれた。引き込まれた、といってもおかしくはない。反射する部分に手が

消えている。

 たったそれだけ。目を射るような光が放たれているわけでもない。だが、それは、明らかな危険信号を送っていた。

「お前は下がれっ!」

 どれくらい気がおかしくなっていたか分からない頭は、彼の叫び声によって元に戻る。

 彼の判断基準は正しかった。ゲームというものではなく、完全な闇だったから。

 聖也は自分の手をもう一方の手で引っ張って、異次元から引き戻そうとしている。しかし、そんな姿を見て帰れるほど、私は人間ができていない。

 聖也の体を後ろから引っ張る。鏡は今や、暗黒に染まっていた。黒い螺旋を渦巻いている。

「ば――未波、早く、行け……っ!」

 そんな言葉を無視して、ひたすらに全体重を乗せて引っ張った。喋ってる暇があったら、一生懸命引っ張りなさいよ、ばか、と心の中だけで叫んでおく。

 重力でも操っているかのような強力な力は、私たちだけでは及ばなかった。

 足は徐々に鏡へと近づいていく。それなのに、更に引き込む力は強くなっているようだった。耐え切れる強さではない。

「未波! 引け!」

 聖也が叫ぶ。俺だけでいい、と。

「いやだ!」

 私は叫ぶ。置いていくことなんてできない、と。

 一際、力が強くなって、ついに体が浮いた。引っ張っているというよりも、しがみつくような形になってしまう。

 鏡が近づいてくるのは一瞬だった。足が浮いた瞬間に、私たちはこの世界とは隔離されてしまったのだから。

 準備室に残ったのは、煙のような埃と、微かな月光を反射する、あまりにきれいな鏡だけだった。

 ―――それは、神に仇なす若き賢者たちの物語。

                        目次へ第一章へ

inserted by FC2 system