第一章 灯火が照らす硝子の風車

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 新鮮で柔らかな草花の匂いで目が覚めた。

 ゆっくりと瞼を開け、あまりの真っ白さに目を細める。

「あ、だいじょうぶですか?」

 声に誘われて振り向くと、すぐ近くに少女がいた。

 きれいな漆黒の髪を背中の辺りで一本にまとめてあり、腰よりも更に長いところまで伸びている。

 茶色がかった黒い瞳が印象的な、しかし、どこかもの儚げな印象を覚える。

 東の国の伝統ある衣装みたいな服を着ていた。民族衣装なのだろうか。

「……だいじょうぶですか?」

 もう一度、心配そうに訊ねてきて、僕は慌てて答えた。

「あ、はい」

「それならよかったです」

 右手を口許に当てて、くすくすと上品に笑う。

 ……そんな彼女の仕草に、思わず見惚れてしまった。

 顔が赤くなってしまったのを振り払うように、今まで停止していた思考を回復させるために、一生懸命に首を振る。

「あ、ありがとうございます。もう、僕、出ますから」

「今のお身体の調子では無理ですよ。もう少しお休みになって下さい」

 起きあがろうとしたが、両肩を優しく押さえられて、力をまるで発揮できない僕は、それでさえ振り払うことはできなかった。

 額に浮いた汗を冷たい布で拭き取ってくれた。

「あの……」

「はい?」

「不躾で申し訳ないんですけど、ここ、どこでしょう?」

 山中を登っていた覚えはあるのだが、それ以来の記憶はきれいさっぱりなくしている。

 ああ、と彼女は笑いながら頷いた。

「ここは、アーネンフェルツェと呼ばれる、山の上の小さな村です。ひとの温もりしかない、本当に小さな村ですよ」

 彼女はそれから、自己紹介もしていない僕に向かって簡単に説明してくれた。

「山の下には工業都市が存在していまして、村とは違い、便利ですけど、ほとんどが機械に頼って生活しています。公害などの問題も多いですが、まだこの村にまで被害は及んでいませんから。それによって、多少の問題もあるのですけど……」

 彼女の顔が一瞬だけ暗くなる。

 しかし、すぐに切り替わって、またくすくすと笑ってくれた。

「あ、えっと、僕、どんな経緯でここに?」

「あなたはこの村の近くで倒れていたんです。雨が降り出したとき、妹があなたを見つけて、ここまで運んできたんですよ」

 やっぱり、無理したのがいけなかったらしい。

 ここ数日、まともなベッドで眠った覚えはないし、獣に襲われたりもして満足に休息をとっていなかった。過労で倒れてしまったに違いない。我ながら他人事みたいな判断だった。

「他に、なにかお困りのことはありますか?」

「い、いえ……」

 そうですか、と彼女は笑った。

「私、近くに咲く薬草を摘んできますね。……動いちゃダメですよ」

 彼女は立ち上がって階段へと向かっていった。その途中、口許に右手を当てて念を押された。

 階段を降りていく、規則正しい足音。

 それを数えているうちに再び眠気が舞い戻ってきた。

 ふと気づくと、差し込む光は色褪せて、深い藍色になっていた。いつの間にか夜になっていたらしい。

 部屋の四隅に置いてある蝋燭が、淡い色を導き出している。数が少ないために、部屋全体の輪郭が捉えられる程度にしか光は存在していない。

 毛布から這い出ようと思っても、体が言うことを聞いてくれない。結局、彼女たちが来るまで待つことになった。

 下から山菜の香りがする。森の香りとはまた違う。

 とんとん、と下から登ってくる音がした。

「起きていらっしゃいましたか」

 先ほどの少女と。

「あ……」

 彼女によく似た少女。

 先ほど話していた妹なのか、雰囲気が似ている。

 世話をしてくれた少女よりもまだ顔つきが幼い。僕よりもひとつかふたつ年下だろうと思う。

「お食事はどうですか?」

 黒塗りの鍋を持っていた。鼻をくすぐる山菜の香り。先ほどの匂いはこれだった。

 随分と食事を取っていなかったためか、僅かにお腹の虫が鳴る。

 慌ててお腹を押さえたが、出てしまった音が引っ込むはずもない。

 くすくすと彼女は笑って、全員分の小皿を配った。

 その間にも、彼女の妹だと思われる少女は落ち着かない様子だった。失礼だとは思いつつも不思議がって見ていると、彼女はぷいっと視線を外してしまう。

「上半身だけでも起きあがることはできますか?」

「あ、はい、たぶん」

 たぶん、無理だとは思ったが、迷惑をかけるわけにはいかなかった。

 悲鳴を上げる体を時間をかけて起こした。

 しかし、そのままの体勢を維持するのは難しかったので、食事をするのに行儀が悪いが、仕方なく壁にもたれ掛かろうとしたが、これ以上は動けなかった。

「ティア、手伝ってあげてくれる?」

「う、うん……」

 おどおどとした動作で僕の背中を支えてくれる。

「ありがとうございます」

「あ、え……」

 なんて返事をしたらいいのか困った様子だった。

「はい、冷めないうちにどうぞ。……ティア、ありがとね」

「うん」

 声をかけられるとすぐに少女の隣に座る。

 彼女から小皿を受け取る。香り豊かな湯気が陽炎のように揺らめいていた。

「あまりお口に合わないかもしれませんけど、どうぞ召し上がってください」

 くすくすと微笑む。

 そんなことはない、と言ってから口を付けた。その動作を少女ふたりは黙って見つめていて、多少の気恥ずかしさがあった。

 見慣れない山菜がきれいに盛られていて、今まで、こんな豪華なものは食べたことがなかった。

「……あ」

「どうですか? お口に合いますか?」

 彼女は心配そうに訊ねてくる。

「すっごく、美味しい、です」

 ぱあっと明るくなる。

 ころころと表情が変わって、逆にとても本物の表情を捉えづらい。

「よかった……。たくさん用意してありますから、いっぱい食べてくださいね。……はい、ティアもいっぱい食べていいからね」

「お姉ちゃんは?」

「私も食べるよ。お先にどうぞ」

「うん」

 やはり、彼女たちは姉妹であるらしい。

 妹である少女は息を吹きかけて冷ましている。一口だけ汁を飲んで、「美味しい」とだけ漏らした。くすくすと姉は笑う。

「あの……」

「あ、そういえば、自己紹介がまだでしたよね。名前が分からないと呼びづらいでしょう、気づかなくてごめんなさい」

 自分の箸を丁寧に置いて、深々と頭を下げる。

 なんだか、充分にお世話になっている自分と立場が逆なような気がして、妙に気が安らがなかった。

「私、コロナと申します。こちらは妹のティア。人見知りが激しい子ですけど、いい子ですのでどうかよろしくお願いします」

 もう一度礼をすると同時に、隣の少女――ティアもためらいがちに礼をする。

 体を無理やり折って、自分の名前を告げた。

「僕はライルって言います。あの、本当に色々とありがとうございます」

 いいえ、と彼女は笑って、無理しなくてもいいですよ、とまで言い添えられてしまった。本当に面目が立たない。

「ほら、ティアもご挨拶をなさいな」

「えと……。わたし、ティア。よろしくね」

「よろしくお願いします」

 小動物を連想させるこの少女は、知らないひとの前で話すと萎縮してしまうらしい。姉である彼女と僕では、赤の他人という点を除いても、だいぶ態度が違う気がする。

「えっと、コロナさん」

「コロナで構わないですよ、ライルさん」

「え? でも……」

「それに、敬語も。私はそんなに偉いことをしたわけではありませんから」

 返すのに困っていると、彼女は言った。

「なら、お願いできますか?」

 そう言われてしまうと、僕は返す言葉を完全に失ってしまった。

 短い間だけれど、最高とも呼べる世話を焼いてくれた。それも、今まで名も知らないひとに。

「あ、はい。……あ、うん」

 慌てて言い換えると、彼女はくすくすと笑った。

「それで、どうかなされましたか?」

「あまり世話になるわけにはいかないし、明日にでも旅を続けようかと」

「それはダメです」

 即答された。

 どうして、と問うと、彼女は深刻な眼差しのまま言った。

「色々と、あるんです」

 やっぱりくすくすと笑っていた。

「それより、ライルさんは、どうして旅をお続けになるんですか? なにかをお探しなんですか?」

「ええっと……」

 結構、他人には言えないことなので口籠もってしまう。コロナはきょとんと首を傾げて僕の答えを待っていた。その間、ティアは黙々とご飯を食べつつ、耳だけをこちらに傾けている。

「……そうだね、探し物といえば、探し物、かな。形のないものだから、いつ手に入れたのかも分かりづらいものだよ」

「そうですか。……でも、本当に見つけたいものなら、もう少ししてから旅をお続けなさってください。今のままでは、すぐに衰弱してしまって、今度こそ大変なことになりますから」

「あ、うん……。でも、やっぱり、迷惑になるから」

「そんなことないもん」

 横から少女の声。

「迷惑なんかじゃ、ないもん」

「ほら、この子もそう言っていますし」

「はあ……」

 少女二人に頼まれて断ることはできなかった。

 くすくすと笑う少女と、僕の腕を引っ張る少女。

 澄み渡り梳った空気が、この柔らかな家中を満たす。

 星色の口笛が響いてきそうなほど透明な風が、古めかしい村を撫でていく。

 煮える鍋が、くつくつといつまでも温かな音を響かせていた。

目次 / Preface 風の音が聴こえる丘 / 02

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