第二章 星海 ――The End of Hypnosis――

「どーすんのよ」
「あいつの予想通りになっちまったな」
「優希くん、分かってたのかな。こうなること」
 結局、私たちだけ、次のステージとやらに進んでしまった。
 密林を抜けたあと、優くんに放り込まれたところまでは覚えているが、あの穴に入ってからの記憶はない。気づいたらここだったという感じだ。
「まいったな。あいつの知識がないと、ちょっと厳しいもんがあるぞ」
「そうね……」
 いつもなら、あなたじゃアテにならないし、とでも言うのだろうが、そんなことを言っているほどゆとりはない。
「……でも、いつまでもこうしていることはできないよ」
「あの神さまが、次の行動を示唆してくれるだろうけどな」
「それでも、攻略には難しいわね」
「かといって、夏姫の言うとおり、このままの状態じゃまずい。現状を把握して、前の密林に戻るか、それとも進むかを決めよう。んで、戻れたらできるだけ戻る。あいつが必要だし、なにより、未波、お前、戻りたいんだろ?」
「な、なにを」
 恥ずかしがる素振りを見せないように心がけたが、一瞬口籠ったら、にやりと笑みを浮かべられてしまった。
「お前の気持ちも分かるけど、あいつならひとりでなんとかできるだろ」
「……そうね」
「未波、だいじょうぶだよ、優希くんなら。ね?」
「……うん」
 二人とも、励ましてくれているらしい。
 自分たちだって、重要な知識の使い手がいないのだから不安であるだろうに。
 ……やっぱり、自分のことしか考えられない私は、弱いんだ。
「そだね。だいじょうぶだよね、優くんなら」
「うん。絶対、だいじょうぶ。そのためにもちょっと歩いてみよう?」
 子どもをあやす母親のような口調だった。この子、いいお母さんになれるだろうなぁ……。いいなぁ……。私じゃ、絶対無理だもんね、こんな口調。
「……どしたの? わたしの顔、なにかついてる?」
 慌てて頬を擦り始めた。
 そんな姿を見ていておかしくなって。
「あははっ……」
 笑えていなかった分が、少しだけ零れ落ちたような気がした。
「ど、どうして笑うのー!?」
 余計に一生懸命擦ってしまう。
 聖也もそんな姿を見て、堪えきれなかったらしい。
 みんなで一緒に、少しだけ笑った。
 笑うことって、楽しいと思う。
 楽しいから笑うのだから、矛盾していると思うけれど、それでも笑うことは楽しい。
 一通り笑ったあと、唯一の男の子が指揮を執る。
「よし。んじゃ、先に進むとしますか」
 注意深く辺りを見渡しながら歩き出す。
 どうやら移送された場所は鍾乳洞らしく、氷柱のような岩が天井に連なっていた。先端から滴る水滴が静寂を連想させる。
 密林とは違い、明らかな作為はなかった。
 足場は泥水になっているので、油を塗ってあるかのように円滑な床となっている。足に力を入れないと滑って転んでしまいそうだ。
 さっきは堂々と敵が現れたからよかったが、今回も相変わらず死角は多い。息を潜めて襲いかかってくるようなものであったら危険かもしれない。
 地上からの光は漏れていないため、ほとんど光はない。先ほどからお互いの顔が確認できているのは、夏姫と私が魔法で炎を灯しているからである。
 ちなみに、聖也は面倒くさいからといっていたが、たぶん、できないからだろうと思う。これくらいの初級はなんなくクリアしてほしいものではあったが。
「転ばないように気をつけろよ」
 一番転びそうなひとに言われても、まったく説得力がない。
「……夏姫、なんか、灯すもの持ってる?」
「ううん、持ってない。どうして?」
「聖也」
「あ、そ、そだね……」
 松明もなしに先頭を歩いているからか、先ほどから痛そうな音が聞こえ始めている。時々、かなり危険な音までする。
「なにか湿っていないものを探さなきゃダメみたいだね」
「でも、こんな洞窟の中で乾いたものなんてあるのかな」
「そうは言っても、探してあげなきゃ聖也くんがかわいそうだよ」
「わたしたちのどちらかが先に出ればいいんだけど……」
 先頭は危険だからといって、明かりの役割ですら断られたのだ。後ろを不安げに歩かなければならないこっちの身にもなってほしいものだが。
「聖也くん、わたし、前に出ようか?」
「いいから。お前は未波と一緒に後ろにいろ」
「ちょっと。少しは夏姫のことも考えてあげなさいよ」
「考えて言ってんだよ。さっきの連中も変だっただろ?」
 呆れた顔で立ち止まる。説明する気のようだが、休憩も兼ねているのだろう。
 最初のころにアドバイスをしてくれた少年たちが精神的にくると言ったのを思い出して、ちりっと微かに痛みを伴った。
「なにがよ」
「気配。まるでなかっただろうが」
「そ、そうだったの?」
 夏姫が私を見る。
「……わたしも気づかなかった」
「だ、だよね……」
「次あったら注意したほうがいい。奴ら、まるで気配がない。優希がいない以上、前を張れるのは俺だけだからな。心配してくれんのはありがたいけど、お前らは後ろだ」
「……うん。わかった。でも、気をつけるのよ」
「そうだよ。そうするんだったら、聖也くんにも充分気をつけてもらわないと」
 二人して、手に灯る光を強くする。
 鍾乳洞だけあってかなり道は狭く、光が遠くまで伸びることはなかったが、少しくらいは役に立つと思う。
 みんなで進んでいるんだから、みんなで助け合わないと。できることはやらなきゃ。
「もうちょっと進むぞ」
 うん、と私たちは頷いた。
 開いた場所から、再び細い道へと入る。
 一列になって進むのが精一杯で、ひとりが通るだけでも岩と岩に挟まれそうになる。服の汚れは我慢するしかないようだ。
 潤滑する泥水に耐えて、やっと大きな穴へと出る。
 相変わらず真っ暗だが、かろうじて部屋全体の輪郭が浮かび上がった。
 円を半分に切ったような形をしており、今までの場所に比べて湿気が少ない。
 誰かが昔にここまで到達したのか、使ったと思われる薪が中心に転がっていた。
 奥には隘路が深い闇を覗かせていた。
 夏姫がスカートの裾を上げて、乾かすようにぱたぱたとやっている。
「あう……。せっかくの服、ちょっと汚れちゃったな……」
「仕方ないだろ、こんな場所なんだし。それに、洗えばいい話じゃねぇか」
「でも、これ、聖也くんに買ってもらったものなのに……」
 顔を俯かせてしまった。
 う、と聖也が変な声を上げる。こいつは夏姫にだけはめっぽう弱い。こんなこと言われたら、なにも言い返せないに決まってる。
 ぽつん、と水が数滴落ちたあと、やっと彼は反応した。
「……お前ら、少し疲れた?」
 なんて、すごく分かりやすい言い訳を恥ずかしがりながら言うのだった。

 ※

『いいかい、君の名前の由来は、何も私たちが使うものと同意義ではないよ』
 ―――ならば、何ですか?
『確かに、私たちの言葉を調べる辞書というのにもね、君の名前は悪いようにしか載っていない。けれど、私が君の名前を―――にしたのは、私の願望もあったからなんだ』
 ―――願望?
『うん。君はね、その特殊な体でなければできないものをしてもらおうと思って。いや、私の押しつけたものが嫌だというのならば、それでも構わない。私が言うのは、あくまでひとつの可能性だということを前提にしておいて欲しい』
 ―――あなたは、私を創造したマスターですから。あなたの言うことは達成します。
『いや、君がしたくなければ、それでいいんだ』
 ―――いえ、聴きたいのです。話して、頂けますか?
 少しだけ間を置いて。
『……やはり、やめておこう』
 瞳を伏せた。
 ―――どうして。私では役不足とでも?
『そんなことは言ってないよ。恐らく、君は私の言ったことをあまりに忠実に守ってしまう。私が決められた制約や、魔法使いという存在でありながら運命というのを信じていないことを知っているだろう。けれど、君は私が創った存在だ。故に、私の命令や言ったことを守らなければ存在意義が成り立たない。目的と存在理由が同じ。それは、とても哀しいことだから。創った私が言うのもなんだけれどね』
 ―――つまり、どういうことですか?
『私の言った言葉を守る必要はない。君の成貌は人間や魔法使いではないけれど、それでも私が慈しみながら創造したひとつの生命だ。だから、私からの願望は言うことができない』
 ―――ならば、マスターは私に何をしろと?
『……そうだな。敢えて言うのなら―――』
 それきり、記憶は途切れている。
 憶えておかなければならない言葉だったはずなのに。
 すっぽりと抜け落ちてしまったかのように、その一部分だけが再生できない。
 温かい記憶。
 私という存在に想い出を与えてくれたひと。
 大切な何かが、砂時計のように零れ落ちていく。
 それは、拾うことすらできないほど細やかなもので。
 私の中に空いた穴は、何で埋めればいいのか分からぬまま、このような結果となっていた。
 私は、満足しているのだろうか。
 彼は、私に何を言ったのだろうか。
 分からなかったけれど。
 それでも、私はひとりの大きなひとを追い求めてきたはず。
 そのひとが、私が正しいと思っているこんな道を走っていたとは、どうしても思えなかった。

 ※

 落ちていた木に火を灯し、岩の上に座る。
 パチパチと爆ぜる音だけが聴こえてくる。
 ……優くん、だいじょうぶかな。
 あんな場所にいて、怖くないのかな。
 進んで行くわけないから、やっぱり私と引き換えに、したんだよね。
「……わたしの、せいだ」
「え?」
 小さな呟きだったが、この音のない空間では充分な大きさだった。
 夏姫が心配そうにこちらを見つめているのが分かった。聖也もぶっきらぼうな視線を投げかけている。
「どうかしたの?」
「……ううん。優くん、いっつもわたしのせいでなにかに巻き込まれてるなぁ、って思って」
 一瞬の、間が空いた。
「そんなことないよ。あれ、おかしかったもの。未波のせいじゃないよ」
 矢継ぎ早に夏姫が言う。離れてしまった心を繋ぎ止めるように。
「もう少し速く走ってれば、こんなことにならなかったかもしれないのに……」
「そんなこと、ない」
「周りのみんなに迷惑かけなければ……」
「そんなことないって、言ってるでしょ!」
 地面を蹴って、勢いよく立ち上がった。
 いつもはおとなしい夏姫に叫ばれて、私は反射的に顔を上げる。
 聖也もこんな彼女の姿を見たことがなかったのか、驚いた表情で夏姫を見ていた。
「な、夏姫……?」
「どうして、そんなこと言うの! 未波のせいで優希くんが置いてかれたなんて、誰も一言も言ってないじゃない! どうして、そんな追い詰められた表情で、そんなこと言うの……!?」
 だって、とか。
 でも、とか。
 言い訳の言葉が浮かんでは消えていく。
 今にも泣きそうな顔をしていた。
「……そんなこと、言ってないのに」
 ぽつりとした言葉がトドメとなった。
 彼女から零れ落ちた穢れのない涙が、私の心に優しく染みていく。
「……未波の、ばか」
 頬を覆うように泣き出してしまった。
 私から見て、誰よりも優しいこの子は、ひとが哀しんでいると自分のことでもないのに泣きたくなるそうだ。瞳が潤んでいるだけで、自分まで涙が溜まってくるらしい。
 なによりもひととの邂逅を愛し、なによりもひととの別離を嫌う、そんなひと。
 それくらい、私にとって、天使に見えてしまうくらい、優しい子。
「……未波。夏姫も言ったけど、お前が悪いなんて一言も言ってないだろ。現にそう思ってないからな、言えるはずもない。優希が置いてかれたのは、お前もなんとなく気づいてるだろうけど、作為的なもんだ」
 私の言ったことに、彼は呆れ果ててしまったらしい。
 やれやれ……。立ち上がって、ため息をつきながら言った。
「優希がいないし、バカな俺だからな、断定はできんけど、ありゃ、きっと、プレイヤーを確実に減らすためのもんだと思うぜ。たぶん、一場面でひとりずつ切り離されていくんだ。じゃなきゃ、さっきみたいな急激な変化はおかしいだろ。それ以前は、まだ納得がいくものだったわけだし」
 獣にせよ、道が一本道にせよ、周りの草花が見たことがなかったとしても、それでも進むことはできただろ、と付け加える。
「予想以上に、俺たちが巧くやったってことだ。だから、神さまとやらも、無理やりにひとりを封じることしかできなかった。別にお前のせいじゃない」
 でも、彼が私の代わりにいなくなったのは、本当のことじゃないだろうか。
 そう言おうとして、やめた。
 確実にひとりずつ減らす、という彼の言葉が本当であるならば。
 この洞窟を抜ける際、必ずひとりは取り残されるということだ。
 その言葉を言ったときに、夏姫だって聖也だって気づいているはずだろう。
 まだ、私が後悔の言葉を繰り返していたら、当然、私たちの心情だって暗くなる。それだけは防がなくちゃ。精一杯、できる限りの、作れる限りの笑いだって、いいと思う。
「……うん、そだね。悪いのは、アイツだもん」
 笑いながら顔を上げてみる。
 夏姫も聖也も、もういつも通りの顔。
 夏姫は、私がした笑顔と共に、涙を必死に拭って笑ってくれた。
「この状態はつらいけどさ。つい、憂鬱になっちまう空気になるけどさ。もう少しくらい、ポジティブに行こうぜ。優希も言ってただろ。陰鬱な気持ちになると、神さまからの制裁が来るって」
 そんな場面じゃないけれど。
 それでも、みんなと行くことができれば、少しくらいは明るくてもいいんじゃないだろうか。
「うん。絶対、抜け出してやろうね」
 今度、あの神さまに会ったら、一発思いっきりぶん殴ってやるんだから。
「ちょっと、弱音吐いたらすっきりした。ありがと、夏姫、聖也」
「ううん。未波がいつもどおりになってくれれば、それでいいから」
「お前の空気は分かりやすいからな。俺たちまで暗い気分になるのは勘弁だし」
「聖也くん、素直じゃないね」
 夏姫がくすくすと笑う。
「素直になりなさいよね」
「お前に言われたくねぇよっ」
「あなたに心配なんかされると、気味が悪いわ」
「お前、本気で口悪いな」
「どーも」
 本当に、いつもどおりだった。
 みんなで軽口を叩き合って、みんなで笑う。
 もう、迷惑かけないようにしなきゃ。自分にやれることだけは諦めずにしっかりやらなきゃ。自分の感情だけで光を閉ざすわけにはいかない。
 それに、優くんを助ける以外にも、ちょうどいい目標ができた。
 独りの痛みを知っている私たちを、わざわざ独りにさせた罪は重い。
 次に、会ったら、本当に―――

「優くん、必ず、助けるから」

 ―――容赦なく、潰す。
「こっちのほうから空気が流れてる。鍾乳洞みたいだから、空気が流れてるほうに出口があるってことだろ」
「そうね。密林のときみたいに出口までは一本道みたいだから、そっちに行ってみるのがいいと思う」
「うん。でも、さっきみたいに変な動物とか出てこないといいね」
 ……何気に。
 悪寒が走ることを言った。
 ぞくり。
 その、変な動物とやらは、夏姫の言った言葉に焦ったのか、僅かに気配を露にした。……いや、正確に言うと、聖也の言うとおりで気配はない。しかし、このような湿っぽい環境の中で動いたせいか、それ自身ではないものが動くのを感じ取れる。
 空気が、張り巡らされた蜘蛛の糸のように張り詰めた。
 暫しの寂寞。
 視えないモノを諦視する。
「―――気づいたか、未波」
「うん。空気に土の匂いが増えた」
「夏姫。俺と未波の間に入れ」
 なにも言わずに間に挟む。
 音は、しない。
 気配も、ない。
 それなのに『在る』感覚が、する。
 ケモノ、特有の感覚。
 それは、唐突に。
「え―――?」
 佩いた刀に手をやることすら忘れていた。
 泥の岩の塊、と形容するのが相応しい。
 最初、その物体は、とんでもなく大きな、既に人知を超えた蛇であるかと錯覚してしまうほどの不可思議なものだった。
 幾つもの巨大な岩石が、泥水によって押し固めて連結させられており、数珠のように連なっていた。岩は数え切れないほど多かった。
 向けられた顔らしき岩石に、妖しく光る紅色の瞳が燦爛としている。
 広いと思っていたその部屋は、一瞬にして覆い尽くされてしまった。存在を押し隠すかのように。
「ど、どうすんのよっ」
 慌てて刀を引き抜き、とりあえず構えておく。答えは分かっていたけれど。
「逃げるぞ!」
 私と夏姫の服を引っ張って、円周に沿って走る。
 嫌でも、奥へと抜けるしかない。他に出口はないだろう。ここを抜けなくては、いつまで経ってもこのままだ。
 やっばー。今日は何度も死にかけてるのにー。
 岩石の分際で蛇のように滑らかに動き回る。しかも、地面に潜れるというオマケつきだ。高速で這ってるクセに。あんな大きな岩がぶつかったら怪我どころでは済まないのは分かりきっている。
 眼がロボットのように光ると、ナイフめいた尾が鍾乳洞を円形に切り取った。
 ギロチンの如き振り払い。なんだか、今日は首を持っていかれそうになる回数が、今までの人生よりも多い気がする。
 て、そんなこと考えてる場合じゃないっ。
 今度は、野菜を微塵切りにするように尾を振り回す。
 先頭は私、夏姫、聖也の順で走っているが、聖也の数メートル後ろから刻々と打ち下ろしてきた。
 地震のように洞穴が震動している。雹のように崩れた石の壁が降り注ぐ。
 短い距離が、遠く感じられる。
 時の歩みが、遅く感じられる。
 その岩石が壁の中を走っている。尾と頭だけを残して、体の部分が埋め込まれていた。まるで、とぐろを巻いた状態みたいだ。
「夏姫!」
 聖也が叫ぶ。
 ひゅるん、と鞭のようにしなった岩石の塊が、壁からすり抜けるようにして現れて彼女の体を攫っていく。
 悲鳴も轟音に呑み込まれて届かない。見えるのは、差し伸べられた細い手だけ。
 聖也が、垂直に地面を蹴り飛ばし、その体を追った。
 二刀を担ぎ、一気に力の限り振り下ろす!
 決定的な銀色の爪痕が、けれど、泥にまみれた岩石に阻まれる。火花が散るほどの激しい金属音が駆け巡った。
「離しやがれ!」
 右手に持っていた刀を、そいつの眼に向かって投げつけた。だが、それも鯨が海へと還るように鮮やかに去っていくことで当たらない。
 お返しとばかりに、残っていた尾が再び彼めがけて放たれる。
「せい――」
 名前を言い終わる前に、聖也と岩の間になにかが飛び込んだ。
 稲妻めいた衝突で暗い洞窟が太陽の如く輝く。白い光の中、思いがけない姿を見た気がした。
「夏姫!」
 そいつは、夏姫を攫ったまま尾をしならせて、とぷん、と潜って消えてしまう。まるで水に飛び込むような自然さで消え失せ、何事もなかったように元の大きな部屋へと戻ってしまう。ただ、夏姫がいなくなり、その代わりに彼がいるという変化だけ。
「くっそ……!」
「あー、ちょっと遅かったねぇ」
「ゆ、優くん……?」
「や、心配かけてゴメンねー。……んー、とりあえず、火を灯そう。聖也、君も。状況が状況だけど、体が凍えるのはよくないからね」
「……ああ」
 脱力したように座り込む。彼とは違った気持ちで――もちろん、同じ気持ちでもあるけれど――へたり込んだ。力が一気に抜けてしまったのだ。
 再び薪に火を灯す。話したいことは山ほどあるが、落ち着くのが先決であると判断したから彼に素直に従うことにした。
 いつもとは少し違った温かみが広がる。
「聖也、だいじょうぶ?」
「……なんとか」
「夏姫さん、攫われちゃったねぇ」
「……優希、これも参加者を減らす手口のひとつか」
「うん、たぶんねー。オレは交換条件で戻って来れたけど。ま、それはあとで話すとしてさ、聖也も少し休んだほうがいい。神経を尖らせ続けると、同時に精神もすり減るよ」
「別に、いい。とにかく、一刻も早く助けに行きたい」
 苛立ちを隠さず、疲れ切った表情で言った。当然、この洞窟のどこかにはいるはずなのだ。先ほどみたいにいる場所が異なるわけではない。
 だから―――
「あー、それなんだけど、ダメ」
「「……え?」」
 ―――予想外の、答えだった。
 二人して、呆けた言葉が出てしまう。今、彼は、なんて。
「夏姫さんには悪いけど、オレたちだけで進もう」
「な……な、んで」
「進む義務があるからね。オレが戻ってきて、夏姫さんが攫われた。それでこっちはひとり分だけ得してるんだ。無駄にするわけにはいかない」
「そ、それは、そう、だけど……」
 効率からいえば、彼の言っていることに間違いはない。二回の削りでひとりしか減っていないことになる。最後までひとりずつ多く進むことができることになるのだ。
 生死を争う戦いの中で、ひとり分の戦力というのは非常に大きい。
 それは、分かっている。分かっているけれど……。
「ふざけんな。あいつをひとりきりにしておくってことかよ」
「ああ。君の言うとおりだよ。独りになってもらう。オレたちが出るために」
 抜けた言い方は一切なく、彼は本気で言っている。ここから出るためにはそうするべきだと。
「……お前、正気かよ。俺たちは独りの痛みを充分知ってるじゃねぇか! それでも、夏姫を独りにさせる気か!」
 じくり、と私の胸が痛みを発した。
 独り。
 その言葉の意味を、私たちは、本当に痛いほど知っている。泣きたくなるくらい、渇いた喉が潤いを求めるような、そんなつらい思い出を。
 だけど、そんな叫んでばかりでは話し合えるはずもなかった。
「ちょっと! 落ち着きなさいよ!」
 声に負けじと大声を上げる。こうなってしまった彼は、なかなか元に戻らない。それが特に大切なひととなれば尚更だ。
 肩においた手をものすごい強さで振り払われた。
「きゃっ!」
 あまりの勢いに情けない声が上がり、足を滑らせて尻餅をついた。
 刹那。
 私の目の前に弦のような細い糸が奔る。
「―――例え君でも、未波を傷つけるなら許さない」
 刀が聖也の首もとに当てられていた。ひんやりと、私の首にも悪寒が駆け巡る。頸動脈から僅か数ミリ。彼が少しでも引いたらその瞬間に死は決定だろう。
「あ……」
 自分でした間違いに気づいたのか、強張りが徐々に溶けていく。振り上げた拳を力なく下ろした。
「悪い……、未波」
「あ、うん……」
 立ち上がろうとするが力が入らず、生まれたばかりの子鹿のようになっていた。途中で膝が折れてしまう。
「……だいじょぶ?」
 軽く背中を折って優くんが手を差し伸べてくれた。頬が赤くなるのを感じながらもその手を取って、顔と顔とが近い距離のまま起こしてもらった。
「ありがと」
「いえいえ。お気になさらずー、お姫さま」
 くすくすと少年のように笑っていた。先ほどまでの真剣味はない。
「ごめんな。俺、熱くなると理性が消えかかるんだ」
 頭の後ろを掻きながら言う。
「知ってるわよ、長い付き合いだもの。……でも、これくらいで聖也が元に戻ってよかったよ。いつもならもっと時間かかるもの」
 半日とか、口すら聞いてくれなくなるときもあった。それくらい周りが見えなくなってしまうのだ。
「……お前だからだろ」
 私に背を向けて、ぽつりと零す。
「は?」
「……なんでもない」
「なによ」
「なんでもねぇよ」
「気になるって」
「なんでもないから」
 ……あ、マズい。今度は私と聖也がケンカしそう。さっきの変な岩石の塊よりも、今の私たちはケモノじみていると見た。
「話を戻すけど、少なくとも、オレたちはそうするべきだと思うよ」
 落ち着いた声で言う。波のように響き渡った。
「あいつはどうなるんだよ」
「誰かひとりでもここから出れば、全員が元通りになるってさっき聞いた。出たほうがいいに決まってる。どのみち、夏姫さんは気絶してるだろうし」
「こんな暗い空間で、いつ殺されるかどうか分からない恐怖を抱きながら、俺たちの誰かが出るまで待ってなきゃならねぇなんて、そんなの、絶対駄目だ」
「どうして」
 淡々と言う。感情はなかった。
「どうしてって、それは」
「哀しいから、孤独だから? 君が夏姫さんの立場だったら、間違いなくそう考えるだろうね。君は強いにもかかわらず、月のようにとても脆い。すぐに独りは恐怖と錯覚する。それは勘違いだよ」
「……どこがだ。俺と夏姫の抱いてる感情は同じだ」
「同じではないね。君も頭の中で理解しているはずだ。自分と彼女は違う、と。なにが違うと自問すると答えは分かるだろ」
「……違、わない」
 そのまま無視して話を続ける。今でも争いかねない緊迫した空気に、私という余地は有り得なかった。
「それはね。独りという絶対的な孤独感を、実際に感じたことがあるかどうかだ。そして、君は昔に言ったことがあったね。『彼女となるべく同じになりたい』って。オレたちのように孤独の凄絶な味を知るには、ちょうどいいんじゃないの?」
「な―――」
 私は思わず絶句した。
 今の彼は、真実しか告げない機械めいている。平和の象徴みたいだった彼は、どこにいってしまったのか。
 両の拳を固く握り締めていた。
「……違うぜ、優希」
 残酷な真実を突きつけられ、それでも垂れていた頭を上げる。
「同じになりたいのは、今も同じだ。だけど、同じ過去を辿るのとはまた違う。俺はお前らと違って強くない。誰よりも強くなりたくて、でも、強くなれなかった。今だって夏姫を護れなかった。孤独に押し潰されそうになったことだって、何度もある」
 私と聖也は、同じだ。
 大切ななにかを護りたいから、強くなりたかった。
 でも、強くなれなくて。独りで背負い込んで、その重さに潰されそうになる。
「夏姫は強い。だから、弱い俺なんて必要ないのかもしれない。だけど、俺はまだあいつを知らない。弱かったとき、独りでいることの淋しさに泣きそうになったとき、俺のように孤独さに息が詰まりそうになったとき、護るのは俺なんだ」
 弱い人間は、弱いからこそ自分のことで精一杯だ。他人を見ている余裕などない。
 けれど、そんな弱い人間にも、ほんの一瞬だけ強さを発揮できる。
 強いひとは、常に満たされている。だから、弱者の何気ない痛みを直に思い知ったとき、途端に弱者よりも弱くなるときがある。
 自分の痛みを知り、それを他のひとに同じ思いをさせないこと。
 二度と、自分のような痛みをさせないようにすること。
 当たり前のこと。
 でも、当たり前でなかったら哀しいこと。
 それが、私たち、弱い者達の為すべきこと。
「お前の言うとおり、迷惑かけるのは承知の上だ。それでも、俺は夏姫を助けたい」
 見据えた瞳が輝いていた。今まで見た、どんな彼の姿よりも強く見えた。
 明確な意志が告げられる。
 歪むことのない、まっすぐな視線と共に。
「……そぉ。んー、聖也はあー言ってるけど、未波はひとり減ってもへっちゃらだったりするー?」
 再び、間延びした声に戻った。あれ、と私と聖也は目を合わせる。
 その急変ぶりに、えっと、と口籠もってしまいつつも答えた。
「わたしは、だいじょうぶだと、思うけど」
「そ。それなら、聖也、行ってくるといい。その代わり、条件つきだよ。いーよね?」
「……本当に、いいのか?」
「だから、条件つき。夏姫さんが捕らわれてるのはね、ここから少し先に行ってから、すぐのトコを進行方向とは違う道の先にあるんだよ。鏡さんがそんなこと言ってたしねー。んでね、その道を進んでると左に折れるトコがあるんだけど、まっすぐに十回行ってから左に折れると着くよ」
 地面を余った薪で削りながら説明してくれる。説明を聞くのが嫌いな聖也だが、いつもとは違って目に図を焼きつけていた。
 一通りの説明を終えて、「分かった?」と優くんが念を押す。
「ああ。……本当に悪いな」
「や、別にいーよ。そーやって気にされると、逆にヤだもん」
「そうね。わたしもさっき励ましてもらったし。その代わりだと思ってもらえればいいわよ」
 本当のことだ。
 幼馴染みなんだもの。つらいことや哀しいことを少し共有してもいいと思う。
「じゃ、途中まで一緒に行こ。すぐそこまでだけどねー」
 優くんがいないときの道に比べ、随分と細道も広くなってきた。みんなで横になっても充分歩けるほどの幅がある。
 もう出てこないとは思いつつも、私はいつも通り真ん中に挟まれて歩いている。左右には、小さいころとは違って、肩も並べられないほど大きくなった幼馴染み。
 男の子なんだなぁ、と思う。身長だって大きくなるし、体つきもぜんぜん違ってくる。
 こんな二人に囲まれているから、私も男っぽくなってしまうのかもしれない、なんて今更ながら思ってしまった。
 でも、それでもいいかもしれない。
 私は、みんながいるからがんばれる。今だって、独りだったら泣き崩れて踞っているだけだっただろう。
 それに、昔では考えられなかった想いだって芽生えてくるのだし―――
「どしたの?」
「え?」
「顔、にやけてるぞ」
「え、そ、そう?」
「うん」
 ……顔に出やすいタイプらしい。振り返ってみても、悉くみんなに気づかれている。少し気をつけないと。
 新鮮な緑の香りがする。出口が近いのだろう。
 一本道だったのが、左右に分離していた。
「聖也はそっち。オレたちはこっち。いい、聖也? 十回行ったあとだからね」
「ああ。そうしたら左に曲がればいいんだろ?」
「うん。足場が悪いから、気をつけてねー」
「……必ず、帰ってくるのよ」
「……ああ、約束する」
 手と手を叩き合う。子どものころからの、約束の印。破られたことのない約束。
「夏姫をよろしく頼むわよ」
「俺が言うのもなんだけど、お前らも、頼むな」
「うん。オレたちが出るまで、夏姫さんと一緒にいるといいよ。……そして、すべての真実を知るといい。今まで思ってきたことが覆されても、目を背けずに、直視するんだよ。逃げてばかりでは強くなれないからね」
 言っていることは詩人めいていて、どうやって解釈すればいいのか難しかったが、どういう理由か、自分にも言われている気がした。
 この鏡の世界から抜けるまでは、二度と逢えないと分かっていても。
 別れの言葉は告げなかった。
 消えていく直前。
 聖也は、最後にやっと想いを伝えてくれた。

「……ありがとな。お前らと幼馴染みで、本当によかった―――」

 きっと、そう想ってるのは彼だけじゃないと思う。
 暗闇に染まっていく彼の姿を見送った。
 遠くで水が滴る音が響き渡る。片方からは小鳥の囀りが聴こえてくる。
 この場面も、もうこれで終わりだ。
「……じゃあ、わたしたちも行く?」
「そーだね。行きますか」
 そうして、聖也が行った道と同じ方向へ進んでいく。
「え?」
「ん? どしたの?」
「なんで、そっちに? 出口はこっちでしょう?」
「やだなー。オレが幼馴染みを見捨てるワケないでしょー?」
「え、え?」
 状況をまったく把握していない私に、優くんは言った。
「ど、どういうこと?」
「もちろん、聖也の手助けー。未波も手伝ってくれるよねー?」
 くすくすと子どもが悪戯したみたいに笑っていた。
 最初から、優くんは聖也を独りで行かせるつもりではなかったのだ。
 助けに行くことに反対する理由など微塵もないので、おとなしく優くんについていく。
「ちょっと急ぐよ。先を越されると厄介だからねー」
「ねえ。先を越されるって?」
「さっき、オレ、十回まっすぐに行ってからって言ったよね。あれ、本当はウソなんだよー」
「え?」
「あそこ、無限ループになっててねー。まっすぐに進んでいるだけだと同じところを回ってるだけになるんだよ。さっき、オレがこっちに戻ってくるとき気づいたんだけどねー」
「でも、どうしてそんなウソついたの?」
「そうしないと、オレたちが手助けする余地がなくなっちゃうでしょー? 最初のトコを折れて余分なトラップは解除しておこうと思って」
 なるほど、時間稼ぎというわけか。
 先ほどの変な岩の魔物は確かに強かった。あいつが夏姫を攫った以上、夏姫の側にあいつがいるのは充分にありえる。
 アレは強かった。戦う前に聖也の体力を無駄に減らすわけにはいかない。
 出口ではないほうは、まるで水路だった。
 光はどこからかかろうじて通っているが、靴の底が浸るくらいの水が敷いてある。
 前とは違い、同じような広い通路が続いていた。彼が言ったように、同じ場所を延々と歩いている気がしてきた。
 所々に岩が突き出しており、砕かれた岩が地面に転がっている。
 奇妙な形の岩を通り抜けると、すぐに二手に分かれる隘路があった。
「ここー」
 松明が灯されている。さっき優くんが通ったといっていたから、彼が灯していたのかもしれない。
「よーし。聖也が来る前にちゃっちゃと片付けちゃうよー」
「うん」
 左に折れて、進んでいく。
 等間隔で場に合わない水銀灯が燈っている。蛍のような柔らかな光が降り注ぐ。
 奥のほうでは霧がかかっているのか、様子を窺うことはできない。
「……来たよー」
「え?」
 一瞬、血が壁に飛び散った気がした。
 抱きかかえられて一撃を避ける。冷たい空気が髪を薙ぎ払う。
「未波、君は先に」
「もちろん、戦うわよ」
 突如現れた飛礫を見つめながら、言いかけた言葉を刀音で遮断する。
 岩は、啼いて、それきり、割れてしまう。
 ひとりで戦わせるのだったら、私がここに来た意味はない。
 怖くたって、やらなくちゃ。
 壁が迫ってくるかのように、飛礫が不可視の速度で襲ってくる。
 刀で空間を真一文字に振り払う。
「未波、一秒」
 耳を劈く音の中、彼の静かな声がやけに響く。
 瞬時に姿が掻き消える。
 私の分もある程度受け持っていたため、ひとりになると例え短くともつらい。
 がしゃん、と硝子が割れたような音がして、飛礫の雨は止んだ。
 霧で霞んだ彼の姿は、距離にして数十歩。レバーみたいなものを引き下ろしたらしい。あの短い間で、しかもこの状況の中で、如何なる方法で辿り着いたのか。
「はふぅ。こんなのだったら、聖也じゃムリだねぇ」
 苦笑いを浮かべて、ため息をつきながら刀をしまう。……どう考えても、この場面に合っていない気がする。
「短いけど、疲れた?」
「ううん、だいじょうぶ。行こう」
 無理に笑顔を作る。
 精神的に、つらいのだ。
 独りではないから、その点での痛みはない。ただ、いつ死んでもおかしくないという状況が連続で起きていることが大変なのだ。
 実戦は、学校でもほとんどやらない。
 慣れていないことは戦いだけに限らず、すべてにおいて大変だ。いや、していることすべてが戦いであるといっても過言ではないだろう。
「優くん、あとどれくらいなの?」
「ちょっとだけど、最後までなにがあるか分からないから、慎重に。でも、最後に到達して、分かれ道まで戻ったら少し休憩しようね」
「うん」
 深呼吸をしてから、再び水銀灯に挟まれた通路を進んでいく。
 霧を抜けて、しばらくしたら、神社みたいな鳥居が建っている大きな部屋に着いた。
 学校の体育館より一回りか二回りほど大きいだろうか、足音がよく響く。
 登っていたら疲れてしまいそうなほどの長い階段があり、その後ろに巨大な鳥居と、神社が神々しく待ち構えている。
「ここまで来ればだいじょぶでしょー。聖也が来ないうちに早く帰ろ?」
「そだね」
 異様な存在感を示す神社を一度だけ振り返ったあと、再び水路に戻っていく。
 形には残らない、手助けの証が、そこには残されていた。

 ※

「……長え」
 愚痴を言いたくなる。
 もうずっと同じ景色だ。
 左に折れる道の半分の数を通り抜けた。あ、また過ぎた。
 なんというか、不思議な違和感がある。
 同じ道を繰り返し歩いているような感じ。優希の言うことだから間違いないとは思うが、疑いたくなるくらい長い。
「……夏姫」
 零した名前が狭い洞窟内ではよく響く。
 戦慄く拳を強く握り締めて、歩くペースを速めた。
 ようやく言われたとおりの回数分だけ通り過ぎ、奥には煌々と水銀灯が燈っている通路へと折れる。
 通り抜ける風が少しだけ肌寒い。
 場は明るい。けれど、ぴりぴりと肌が傷む。進むのを体が拒否しているかのよう。
「……ざけんな」
 自らを鼓舞して先に進む。
 奥はミルクを垂らしたみたいに深い霧が立ち込めていた。
 体を溶かすように歩いていくと、足下には鋭利な刃物で斬られた岩が大量に転がっている。前に誰かがここを通ったのだろうか。
 その岩の欠片を拾い上げて見ていると、少し先に下に引き下げられたレバーがある。上に押し返そうと思ってもできなかったので放置しておくことにした。余計なことをすると変なものが飛んできたりしそうだし。
 宙に浮かんでいるような実体のない回廊。
 その終わりに、巨大な鳥居が出迎えた。
 相当古いようで、あちこち色が禿げてきているが、それでも神秘さとでも言えばいいのか、そういったものは失われていない。
 それをくぐり抜けると、遙か彼方まで伸びている横幅の広い階段が連なっており、更にその奥には神社らしきものが建っていた。
 一歩一歩、踏み締めて登る。
 アレだと、知らずうちに認識した。
 無理やりベルトに押し込んである、佩いた刀に手をかける。
 どれくらい時間が経って登り終わったのか。
 最後の一段は妙に重かった。
 文化遺産にでも登録されていそうな大きな神社。よくこんな洞窟にこんなものが存在できるものだ。
 両翼を広げるかのような屋根の下、彼女は、神主の代わりに横たわっていた。
「あ―――」
 真っ白な、透き通っているかのような、まさに天女の羽衣と呼ぶに相応しいであろう装束が彼女にかけられていた。
 言葉よりも先に足が出る。
 駆け寄って、安否を確認する。
「……よかった」
 ただ、眠っているだけだった。
 優希の言うとおり、ただ攫われたときのショックかなにかで気絶したのだろう。
 だからといって、このまま彼女の側にいることは許されなかった。
 抱き上げた小さな体を名残惜しくも元に戻す。
「よお」
 出てきた洞窟の近くの壁から、突如姿を現した岩石の物体。
 岩盤は破裂し、砂塵を嵐のように巻き起こした。
 二刀を構えて、その中にいるヤツを視る。
 ヤツの真紅の眼が獲物を捉える。
 同時に、その視線がぶつかりあった。
「数分前の借り、ソッコーで返しに来たぜ」
 元より短気なんで。
 そういうのがあるの、嫌いなんだよな。
 それと。
 こう見えても負けず嫌いでな。
 自分が負けっ放しなの、大ッ嫌い。
 だから。
 もう。
 負けるわけには、いかない。
 俺の存在が気にくわないのか、地震を起こしてしまうくらいの大声で啼いた。
「―――……え?」
 な、なん、で……。
 絶えず、啼き続ける。
 それに比例して。
 封印された、思い出が、蘇って、くる。
「あ……」
 目の前が真っ赤に染まる。ペンキを塗りたくられたように、周りが見えない。夕焼けを文字通り、目に夕日を焼きつけたみたいに。
 抱き寄せられる感覚。
 運ばれる振動の感覚。
 周りを駆け回っている人間の感覚。
 そして。
 ココロのなにかを失くしてしまった、感覚。
「やめ、、、、、ろ……」
 刀を、落とした。
 膝を落として、手をつく。
 哀しい思い出と、温かい思い出。
 いなくなった思い出と、懐かしい思い出。
 頭にヒビが入ったと思うほどの激痛が奔った瞬間に、意識は完全に消え失せた。

 ※

 鍾乳洞を抜けると、銀色の月光が照らす、長く続く海辺だった。
 右手には海が、左手には草花が生い茂る草原が、例えるのならオアシス。
 草原は砂浜より一段高い場所にあり、簡単には登れそうにもない崖になっている。それでも、その崖が草原になっていると分かるのは、南国にしか育たないような大樹が何本も顔を覗かせているからである。
 海風が私たちを優しく撫でる。
 砂を転がす波の音が、私の耳を潤していく。
「きれいだね」
「そーだね、ずっとこんなのだったらよかったのに」
 水平線は、深海色と空色の曖昧な線で引かれており、それくらい海と空の境界線は見えにくい。同じような色をしている。
 打ち寄せられた貝殻を拾ってみた。
 浅学な私はこの貝殻の名前は知らなかったけれど、どうしてか、大切にポケットに仕舞い込んだ。
 靴と靴下を脱いで、素足を海にさらす。
 腰の辺りの飾り紐が、髪と共に風に揺られて漂っている。
 立ち止まって、終わらない夜を見つめていた。
 どんなに美しくても、これは造られた世界。
 変わらない、永遠。
 それでも、少しだけ。
 深呼吸をしながら、余韻に浸ることにした。
「……なんだか、ここ、懐かしい気がするの」
「え?」
「わたしもね、自分で言っていてよく分からないんだけど。ここはわたしたちの世界とは異なる世界なのに、どうしてか、懐かしいのよ。みんなと一緒に海辺を散歩したこととか、子どものころに追いかけっこして遊んだこととか思い出すんだ。どうしてだろうね」
「今のオレたちの世界では、失われつつある光景だからかな。こんなきれいな夜を観ることができるのは、もう数少ないだろうしね」
 そっか、と頷く。
 私たちの思い出の場所は徐々に消えていくんだ。
 形に残らない。それは、その場所になかったかのように。
 だから、こんなにも懐かしい。だから、こんなにも愛おしい。
 失くせないもの。失くしてはならないもの。
 心に、大切に仕舞っておくもの。仕舞っておくべきもの。
「わたしたちの思い出の場所、わたしたちが知らない間に心が欲しがるんだね。なんだか、ちょっと切ないな……」
 自分では心が欲しがるものが分からない。その場所やものに出会うまで、気がつかないのだ。
 ほんの少しだけ、それは、淋しいことなんだって思った。
「……そうだね。でもさ、その場所が消えてしまったとしても、その遊んだ記憶さえ曖昧になって思い出せなくなったとしても、なんていうのかな、ひととひとが触れ合ったときの温かみは消えないと思うんだ。ほら、未波だって、この場所を観ていて、懐かしいと感じたでしょ。それとおんなじ」
「そうね。失くなってしまった、空いてしまった穴は、わたしたち自身で埋めるしかないものね……」
 夜風がたなびかせる髪を耳の辺りで押さえる。
 記憶ではなく、それ以外のなにかが覚えているもの。
 それは、今、私が想えたこと。
 それがなんなのか、私には分からないけれど、今の優くんの言葉に小さなわだかまりが胸にすとんと当てはまった気がした。
 海の味が微かに残る潮風を浴びて、砂浜の中を舞った。
 旗のように服がはためいて、飾り紐が流れていく。
 そういえば、と舞い踊りながらふと思った。
 ……私が、優くんをただの幼馴染みとして思わなくなったのは、いつごろだったかなぁ。
 結構最近だったとは思うのだが、いつもみんなと一緒に他愛もない生活をしていたからか、ほとんど覚えていない。
 靴を元通り履き終え、靴紐も結び直す。
 両手を水平にして、そんな甘酸っぱい恋心を噛み締めながら歩き始めた。
 優くんはなにも言わずに砂浜を同じ歩幅で歩いてくれる。
 ん……、ちょっと訊いてみようかな。
「ねえ、優くん」
「んー?」
 背後から、子どもを待つ父親のように、ゆったりとした口調。
「さっきのイーターだっけ? ……とした交換条件ってなんだったの?」
「あー、アレね。うーん……。そーだな、今は言えないんだ」
「え? どうして?」
「君に、心配をかけるの、イヤだからね」
 ……月がもう少し隠れていればいいのに。赤いの、見られちゃったらどうしよう。
 こんな言葉に、どうやって返事をすればいいのか分からなくて、両手を腰の辺りで結び、恥ずかしくて微笑みながら俯いて歩いていた。
 私は、いつもこんな感じになってしまうけれど、実際に優くんは、私のコト、どう思ってくれているのだろう。
「優、くん」
「んー?」
「あのね、ちょっと、訊きたいコト、あるん、だけど」
「なあに?」
 ゆっくりになっていたのが、完全に停止してしまう。
 立ち止まって、訊いてみた。
「好きなひと、いる?」
「……状況にあってないよ」
「あ、あなたに言われたくないわよっ」
 そこはこう、女の子が精一杯訊いてるんだから、場所とか関係なく答えてくれてもいいのにっ。てゆーか、男と女の二人っきりなんだから、状況には相応しいじゃないっ。なんでそう、余計なトコに突っ込むのかなっ。
「でも、どーして?」
 ―――だ、だって、気になるものは、気になるんだもん……。
 思わず口に出しかけた言葉をかろうじて飲み込む。
「……なんとなく」
 ふん、だっ。
 心の中だけで悔しがる。やっぱりどこか歯車が噛み合ってない。
「未波はいるの?」
「え?」
「好きなひと」
「あ、えと……」
 ……このひと、ホントに空気読んでない。知識はありすぎるほどあるのだが、女の子の心を読むのは大の苦手。……昔っからそうなのだ。
「ええっと……」
 どう答えればいいのか、本当に分からないことばかり訊いてくる。
 そのまま、ぽつぽつと歩き出す。
 波の音が静かに響き渡る。私たちからは、足音しか発さない。
 何度も口籠もり、結局言葉を紡ぎ出すことができなくて、でも、そう訊ねてくれるのが嬉しくて、複雑な想いを潰れるほど強く抱き締めていた。
 入り江に差しかかり、道順に沿っていくと。

「ごめんね、未波」

 零した言葉が最後になった。
 下を俯いていたから、彼が立ち止まっていたのに気づかなかった。
 言葉に振り返ると、どこか憂いを帯びた笑い顔。
「ここで、お別れ」
「え……?」
「ここが、最後のひとを削る場所。オレが残るから」
 駆け寄って、でも、彼の目の前で見えない壁に阻まれた。
 吹き飛ばされて、尻餅をついたままワガママを言う子どものように叫んだ。
「な、なんでよ! 優くんのほうが強いんだから、あとまで残んなさいよ!」
「うん、それが、イーターとの約束。君をここまで連れてきてもいいけど、代わりにオレが残るという条件」
「なんでそんなワケ分かんない条件にしたのよ!」
「君を、護りたかったから」
 硝子越しで話すようだった。
 いつもと変わらない顔。
 だけど、透明な絶対の壁。
 貼りつけるように手を押し当てて、独りになりたくなくて、もっと彼に近づきたいと思った。
「なんで、よ……」
 我慢、できなかった。
 私、また、ワガママ言ってる。
 理由なんて、痛いほど分かるのに。
「最初だって、あんな密林に君を残すことはできなかったし、今回だって、あのまま罠に気づかなかったら二人とも死んでたよ」
 あまりに薄い壁越しに、彼は手を重ねてくれた。
 直接の温もりは感じられないけれど、温かい。
「ゴールまで、ほんの少し。もうちょっとだから」
「……わたし、独りじゃ、ダメだよ………」
「それは、オレもおんなじ。独りじゃオレもダメだよ。だけどね、詭弁かと思われるかもしれないけど、オレたちは独りじゃないんだ。ひとりであることと、独りであることは違うから。なにより大切なのは、みんなで一緒に過ごした時間があること。孤立したとしても、孤独じゃないんだよ」
 様々な理由で、私たちは両翼を奪われた。
 その凍えた背中を寄せ合い、温めるためにここまで巧くやってこられたのだろうと思う。
「ただ、温かなものを、想い出すだけで、独りじゃなくなる」
 大切に想われていることを知って、知らずうちに涙が溢れてきて、拭うこともせずに彼の言葉を聞いていた。
 大切な仲間という温かさを知ってしまった私は、もうないと生きていけない。
「必ず、帰れる。……ううん、必ず、家に、帰る」
「……ほんと?」
 小さいころの自分のような口振りだった。
 独りになると認識しただけで、私はこんなにも弱くなる。
 どんなことを言われても、ここを抜け出せる自信なんてなかった。
 精神が弱くなるとここを出られないというのなら。
 だから、もう。
 私たちは、永遠に帰れない―――
 嗚咽が波の音に消される。
 離れたくなくて、でも、そんなのがいつまでも続かないことは知っていた。
 覚悟はしていた、でも、甘かったのだ。
 優しい思い出のヴェールに包まれた、孤独の時期の哀しい思い出。
 涙で前は見えなかったけれど。
 彼はくすりと微笑んだ。
 そのまま、少しだけ背伸びをして。
「え―――?」
 壁越しに、私の額に、口づけをしてくれた。
「心があったまるおまじない」
 そっと離れた。でも、まだ距離は近い。どきどきしてしまう。
「体じゃなくて、心を温めるおまじないなんだって。じーちゃんが言ってたんだ。どうかな?」
 相変わらずの笑みを浮かべて言う。
 抱き寄せられた赤ん坊のように、いつの間にか私は泣きやんでいた。
「……うん。すごく、あったかい」
 なぜかは分からない。
 君の体温を直接感じることはできないけれど、とても、温かい。
「そっか。それならよかった。……もう、ひとりでもだいじょうぶそうかな?」
 泣いて熱くなっていた瞳は、先を見据える眼に変わっていた。
 自信は今でもない。
 だが、不思議と。
「―――うん。だいじょうぶ」
 信念を告げる。
 彼は満足そうに頷いて。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
 何事もなかったかのように、手を振りながら送り出してくれた。
 私は、振り返りたいのを精一杯我慢して、ただ、月の光を受けて走った。
 自分の命だけでなく、みんなの命、意思も背負っている。決して軽くはない。
 独りでは重さに耐えきれずに潰れてしまうかもしれない。
 だけど、今は、ひとりであっても、独りではないんだ。
 冷たい旅路を歩くときも、信じ合える仲間がいるから、孤独じゃないんだ。
 だいじょうぶ。私は独りじゃない。
 たくさんのひとたちの優しさに包まれて、私たちは生きている。
 今更になって、そのことがようやく識ることができた気がする。
 走馬灯のように駆け抜けていく、想い出と記憶の破片。
 さあ、残りの途は、あと僅かだ。
 祈りのような、けれど、確かな形の幸せを携えて、私たちの未来へ向かって。
 もう少しだけ、涙色の空を翔ぶことにした。

 ※

『……そうだな。敢えて言うのなら―――』
 ……少しだけ、過去を思い出す。
『―――君には、子どもたちを幸せにして欲しい』
 ―――子どもたちを?
『うん。私は、もうそろそろ二度と戻らない旅をする。そのとき、孫たちだけに限らず、君が出会ったすべての子たちを楽しませてやって欲しいんだ』
 ―――それが、マスターの望みですか?
『そう。どのような形であるかは、私からは指定しない。君が考えるんだ。君は楽しいということが分からないだろうけれど、それでも、そうして欲しいんだよ』
 ―――マスターの望みならば。
『有り難う。でもね、さっきも言ったけれど、私の言うことを忠実に守る必要はないんだよ。君がしたくなければそれでいい。自由に生きるのが、私が示す君の役目。不幸にさせたければそうすればいいし、私のようにみんなに迷惑をかけつつも各地を回ってもいい。これからの未来を決めるのは、君だよ』
 ―――必ず。
『……何時か、私の孫たちが来るだろう。名前は教えないが、どういうわけか私に似ていてね、それとなく分かるかもしれない。特別扱いすることなく、もてなしてくれると有り難いのだけれど』
 その言葉が今になって思い出された。
 二度と戻らない旅。
 その意味が、当時の私には分からなかった。
『約束だよ。私が旅に出たら、君のことは孫たちにも知らせていないから知らないだろう。それでも、何時か必ず君の元を訪れる。その間、君はひとりでいることになるけれど、私と過ごした日々を忘れないで欲しい。ひとりであっても、独りではないのだから。……そうだな、私の孫も、君が現れたら、今みたいな言葉をかけてくれるかもしれないね。あの子は、悲しくも私に似ているから』
 そういうマスターの顔は、本当に嬉しそうだった。
 しばらくして、彼は旅に出た。
 目の前にいて始まり、そして終わる旅。
 二度と、私と話すことはなかった。

 ※

 始まりは、本当に突然だった気がする。
「ねえ、優くん」
「んー?」
 彼は幼いときからのんびりとしていた。日向のような温かな眼差しと空気を天性的に持っている男の子。
 私はどちらかといえば、自分を引っ張ってくれる男の子が好みだと思う。そう、なんていうんだろう、私の考えていることを言わなくてもそれとなく察して行動してくれるひと、みたいな。
 それに加えて、道路を歩いているとき、さり気なく車側を歩いてくれるような、些細な優しさを持ち合わせているひとが好きだった。
 私の幼馴染みたちはそれに当てはまらない。当時の私はそう思っていた。引っ張る役目はむしろ私だったし。
「次、どこ行く?」
「んー、オレは別にないけど」
 ……この有り様だ。面倒くさがり屋なのか、幼馴染み二人して「好きなところをどうぞ」みたいなことを平然と言ってくる。仮にも女の子なんだから、率先して引っ張って欲しいことくらい理解してもらいたいのだが、どうも彼らはそういうのに対して無関心なようだった。
「……じゃあ、ちょっと回っていい?」
「うん。時間あるしね」
 久しぶりに二人きりで街に遊びに来ていた。
 私たちは今、中心街のデパートの中にいる。
 聖也は成績不良により追加の宿題があり、それを提出しなかったために――恐らく、わざとではなく、本当に答えが分からなかったと思うのだが――担任の先生に呼び出しを受けて、日曜日なのにもかかわらず学校に行っていた。
 まだ、私たちの中で、誰も付き合った経験があるひとはいない。
 子どものころから彼らと一緒にいたためか、他のひとと話そうが関係ないらしい。少なくとも、私はその傾向にあった。
 季節は夏。
 七夕祭りまであと少しで、街も笹が徐々に飾られ始めていた。
「そういえば、もう、未波は七夕祭りのときの浴衣って決まってるの?」
「一応はね。一週間前にお母さんと選んだの。似合ってるかどうかは分からないけどね」
「似合ってるよ、きっと」
 くすくすと彼は笑う。……いつも思うのだが、こう、聞いてて恥ずかしくなるような台詞をこの子は普通に言うのだった。
 言葉を繋ぎ出すことができなくて、慌てて品物を見るフリをした。
「あ」
「んー?」
「これ、かわいい」
 暑いんじゃないかと思う黒い服の袖を引っ張る。
 涙のような、真珠のような、本物の海辺を幻視させるような、一瞬ですら視認を許されないかのような、小さな貝殻のペンダントだった。
 キラキラした宝石みたいなものでもない。飾りが多くついていてとりわけきれいに見えたわけでもない。
 それとなく惹かれた。理由は分からない。
「……でも、高いね」
 クーラーが利いたこの中で、思わず汗が垂れてしまう。そこまで高くはない。ただ、ぴったり全財産を僅かに上回っている。狙い澄ましたかのように、ワンコインだけ高い。
 ため息をついてしまった。私がこれを買うだけのお金を持っているときには、とっくに売り切れてしまっているだろう。お小遣い、月に一回だし。もっと、お母さんからもらったお金を大切に使えばよかったなぁ。
 見惚れてずっと眺めていた。
「……すみませーん。これについてなんですけどー」
「え?」
 彼はいきなり店員を呼んだ。
 そのペンダントをケースから取り出した。ケース越しとまた違った印象を受ける。
「えっとですねー、これ、いただきたいんですけどー」
「ちょ、ちょっと……」
 私、お金ないってばっ。
 それにこれをしても私、似合わないしっ。
 必死で言い訳している間にも、優くんと店員との間で会話が進んでいく。
「青春ですねぇ」
「いえいえー」
 店員がどこか狙った言葉を発したが、優くんはあっさりと受け流す。
「お付けになりますか?」
「いいえー。似合うって分かってますからねー」
 ……たぶん、恐らく、きっと、この一言が私にとっての致命傷にもなる一撃だったのだと思う。
 いつもとおんなじような恥ずかしい台詞。
 それなのに、私の胸にそれは優しく突き刺さった。
 トゲみたいに差し込まれているのに痛くはなく、なかなか拭えない不思議な感覚。
 恋ってものは、本当に、唐突だ。
「はい、少しだけ早い誕生日プレゼント」
「あ、う、うん……」
 くすくすと笑いながら渡してくれた。

 私はそのとき買ってもらったペンダントを大事にしている。
 今回は持ってきていないけれど、みんなと遊びに行くときは欠かさず付けていた。
 星屑のような煌めきを湛えた貝殻。
 陽の光に翳すと、木洩れ日みたいな淡い虹色を紡ぎ出す。
 そんな儚さが、私は、大好きだった。
 高校一年生の七夕祭りの一週間前。
 やっと、私の恋心の歯車は廻り始めたのだった。

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