第三章 鐘楼 ―――Sounds in Airs and Not Be Hollow Our Faith―――

「ねえ、夏姫」
「え?」
「未波たち、いないね。いるって言ってたのに」
「うん、そだね……」
 ……まだ、逢えないんだ。私、運がないのかなぁ。
 近くで毎年行われる七夕祭りに、私は友達と来ていた。
 花火も盛大に放たれ、この辺りでは最大のお祭りだった。
「ははぁん?」
「え、な、なに?」
「さては、夏姫、おヌシは萩原に会えずに悩んでおるな?」
「え、え、そ、そんなこと……」
「あるんでしょ? あはは、夏姫、ホントに分かりやすいねえ」
「へ、へんなコト言わないでよ……。せっかく、その……」
「元々、お肌が美しい夏姫さんに化粧は要らないからしてないけど、浴衣は精一杯選んで出てきたんだもんねー」
「「ねー」」
「あ、あう……」
 友達全員に満面の笑みを浮かべられて、恥ずかしくて頭が真っ白になりそうだった。
 でも、事実なので言い訳できない。
 私から彼女たちに言ったわけではないのに、どうしてか知っていた。女の子の恋の情報は速く、連絡網みたいに回るのだとか。
 未波から、彼と一緒にお祭りに参加すると言っていたから、いつもは家で見る花火も参加することにしたのだった。
 それから、何度も茶化されながらお祭りを楽しんでいると。
「ん?」
「どうしたの?」
「あれ、萩原じゃない?」
「あ、ほんとね。しかも、ひとりじゃないっ。……ほら、夏姫、行ってらっしゃいよ」
「でも……」
「じゃあ、なんのためにここに来たのよ」
「あう……。う、うん。えと、あの、じゃあ、行ってくるね」
「「「がんばってねー」」」
 盛大に手を振られて、ものすごく恥ずかしかったけれど、とても励みになったのだ。
 ええっと、まず、どんなふうに話しかければいいって言われたっけ。……そうそう、偶然を装って話しかけるといいんだった。なんだか、運命性を信じやすくなるとか言っていたような気がする。
 彼はどうやら誰かを探しているように見えた。
 その視線にぶつからないように気をつけて、ゆっくりと近づいていく。
 青っぽい白と紺色の縦のラインが入った浴衣を着ていた。……わ、初めて見る。ものすごく、似合ってるなぁ。私は、どうなんだろう。心配だよぅ。
「……あれ、萩原くん?」
 おずおずと話しかけた。
「―――え?」
 彼は振り向く。
 団扇を仰いで、少し暑そうだ。
「あ、やっぱり萩原くんだ。こんばんは」
「あ、ああ。こんばんは、五月女」
 彼が返事をしてくれたのを聞いたら、私は嬉しくて微笑んだ。
 ……えっと、次は、人混みに紛れてしまわないように、人気の少ないところに出るんだったっけ。
「ちょっとここじゃ邪魔になるね。開けたところに出よ」
「あ、ああ」
 思ったよりも、彼は控えめだった。積極的なイメージだったんだけどなぁ。イメージはちょっとだけ変わってしまったが、私の気持ちは変わっていない。
 屋台の道から外れて、花火の会場と屋台の道を繋ぐ細い道を歩く。
 ひとは多いが、先ほどよりは少なかった。
 ……こういうときは、自分の感想を訊いてみるんだったかな?
「あの、萩原くん」
「うん?」
「ど、どうかな、いつもと違って浴衣姿だけど、似合う?」
 頬が微かに紅潮していると思う。
「うん、似合うと、思うけど」
 自分でもなにを訊ねているんだろうと不思議に思いながら、その言葉が嬉しくも恥ずかしくてお礼を言う。
「よかったぁ。ちょっと不安だったんだよね、浴衣って」
「そうなのか?」
「うん。七夕祭りに出るのは、今日が初めてだったから」
「へえ。家、遠いの?」
「ううん、家は近いの。だから、見に来る必要はないっていうのかな」
 でも、今日だけは見に来た。
 君に、逢うために。
「っていうか、五月女、お前、今日、ひとりで来たのか?」
 ……こう訊かれたら、はぐれてしまった振りをするんだよね。
「え? ううん、違うよ。友達と……て、あれ?」
 いまさらになって友達がいないことに気づいたように、辺りをキョロキョロと見渡してみる。……あう、彼にこんなに堂々とウソなんてつけないよ……。
「えと、はぐれちゃった、みたいだね……」
 はにかむように笑う。
 はぐれたことにではなく、演技に対してだったけれど。
「萩原くんも?」
「いや、俺も未波と優希と一緒に来たんだけど、落し物を拾ってるときにはぐれちゃったみたいでさ」
「そうなんだ……」
 だから、誰かを探しているように見えたのは本当のことだったんだ。
 でも、そんなことは言えない。言ったら、前々から見ていたことに気づかれてしまうかもしれない。
 せっかく出会ったのに、ここからひとりで未波たちを探し始めてしまうかもしれない。こんな一遇のチャンスなんてない。逃したくなかった。
「あの……」
「五月女」
「え?」
 私の言おうとした言葉が途切れる。
「俺と―――」
「え、ええっ?」
 私は頬を押さえて驚きの声を上げた、が、声は止まらず先に進む。
「―――一緒に探さないか?」
「え?」
「どうだ」
「あ、え、えと、う、うん」
 長い言葉詰まりのあと、私は小さく笑って頷いた。
「なんで、今、そんな言葉に驚いたんだ?」
「え、え、ええっと……。ひ、ひみつ、かな」
 も、ものすごく紛らわしいよ……。びっくりしたぁ……。
 鼓動がドキドキしてて、心臓が胸から飛びだしてきそうだ。
「どうして」
「それを言ったら、秘密の意味がないよ」
「そりゃそーだ。……とりあえず、お前の友達を探してみるか」
「うんっ」
 恥ずかしながらも手を差し伸べると、彼は私の顔を驚いたように見たあと、軽く笑ってくれて、私の手のひらに温かい手を載せてくれた。
 弱く握り締めて、元いた道へと戻っていく。
 その賑やかな道の途中で、私は小さく呟いた。
「……ほんのちょっぴり、ほんのちょっぴりだけど、期待してたんだけどなぁ」
「ん? なんか言ったか、五月女」
「う、ううんっ。なんでもない」
 このひとの中で、よく私の声が聞こえたものだ。私の声だけを聞こうとしたわけじゃないだろうに。
「ねえ、萩原くん」
 不意に私は言った。
 ちょっとだけ、気になる。
「ん?」
「未波のこと、好き?」
 吸っていた息を思いっきり吐いて、咳き込んだ。
「だ、だいじょうぶ?」
「あ、ああ。……それにしても、変なことを唐突に訊くのな」
 慌てて付け足すように言った。
 気づかれてしまわないように、私の精一杯の努力だ。
「えっと、親友として、ちょっと気になるよ」
「はあ」
 一度だけため息をつくように息を吐いて、律儀に返答してくれた。
「いや、あいつはそういう対象じゃないんだ。あいつは、女というよりも、あくまで幼馴染みだから。どんなに親しくしてても、あいつとは天地が引っ繰り返っても恋人関係にはならないな」
 きっぱりと断言する。
 あまりにもはっきりと言ってくれたので、私は安堵の息をつく。
「そ、そうなんだ……。よかったぁ」
「え?」
「え、あ、あう、ううんっ、な、なんでもないの」
 ……変なこと、訊いちゃったかな。でも、やっぱり気になるのは気になる。
 話題を変えて欲しいらしく、無理やり切り返される。
 幸い、未波を通して結構話したことはあるから、沈黙で苦しむことはなさそうだ。
「五月女は、付き合ってるとかいう噂は聞いたことないけど、実際どうなんだ?」
「うぅん……。ええっと、まだ、お付き合いしたこと、ないんだ」
 みんな素敵なひとが側にいていいなぁ、とは思う。でも、そういうひとに今まで会ったことはこのひとしかなかったのだ。
 私に告白してくれる方はいらっしゃったけれど、ほとんど話したこともない方から言われたこともあって、戸惑ったこともあった気がする。
 そんなことからか、私は「告白」というのに恐怖心があった。
 それを克服するために、今回は絶大なチャンスだと思う。
「周りのみんなは、大体、これくらいの歳になると、ひとりくらいはあるって言うんだけど、わたし、そーゆうの、ダメみたいで」
 苦笑いを浮かべる。
 ……そういえば、未波の相手はどうなのだろう。長い間付き合っている友達として気づくものだけれど、当の本人は気づいているのかいないのかよく分からない。
 同じように、同じ質問を返してみる。
「あの、失礼だけど、萩原くんは?」
「ない。まず、基本的に告白なんかされない」
 ……あれ?
 一年に十人くらいなら当たり前にされてるっていう噂を何度も聞いているんだけど、間違いなのかな、それ。
「そっか。じゃあ、わたしたち、似たもの同士なんだね」
 くすくすと私は笑う。
 どことなく、幸せだった。
 それから、私の友達と未波たちを探して歩き回ったが、一向に彼らの姿を見かけなかった。なんだか、避けられている気がしないでもない。
 中央の時計を見てみると、いつの間にか花火が始まる時間になっていた。
「わ。もう、そんな時間なんだ」
「早く時間が過ぎたな」
「楽しいこととか幸せなこととかやってると、時間が過ぎるの、早く感じるもの」
 くすくすと笑った。本当に、幸せ。
 ぱーん、と。
 空に花が咲いた。
「あ、花火だ」
「うん。……もっと近くまで寄ろうか。ここじゃ、ひとが多くてよく見えないだろ」
「そうだね」
 ……えっと、花火を見ることになったら、私から誘うんだったよね。
「……うぅん、あそこの丘なんてどうかな?」
 私が指差した先は、多くのひとが花火を見る場所から少し離れた、灯りの少ない丘だった。離れているためか、ひとはほとんどいないように見える。
「いいんじゃないか」
「じゃ、行こっ」
 私が進んでいこうとしたけれど、彼が半歩のその半分くらい前に出て、繋いでいた手を引っ張ってくれた。
 二人きりで歩いていく。
 夜風が心地よい。涼しげな風が彼の茶色がかった髪の毛を炎のように揺らめかせた。
「ここ、すっごくきれいに見えるな」
「う、うん」
 目的地を見ずに彼ばかり見つめていたからか、いつの間にか丘の上に着いていた。
 障害物がなく、七色の光を散りばめているのがよく見える。宝石をばら撒いたような美しさだ。光のお花畑みたい。
 とにかく、努めて冷静になることを心がけた。
 花火を二人きりで見ている上、それに夢中になっているのか、彼は私の手を離さなかった。絶好の機会だ。こんなチャンスは二度と訪れないに決まってる。
 気づかれないように深呼吸をして、ぽつぽつと夜風に言葉を乗せた。

「―――わたしね、好きなひとがいるんだ」

「え?」
「そのひとね、わたしの一番大切な友達の、大切にしている幼馴染みなの」
「―――え?」
「そのひとのこと、その子が自慢げに話すのをいっつも聞いてて、どんなひとなのかなぁ、ってずっと気になってたんだ」
 ただ、時が過ぎる。
 自分がどんな顔をしていたかさえ、分からない。
 言葉を紡ぎ出すのに一生懸命で、他のことに気が回らない。
 花火が放たれて、彼の顔を淡く染める。
「今年、本当にたまたま同じクラスになれて、そのひとを見る機会が増えた。そのお友達を通して、そのひとと会話することもできて、たったそれだけなのに、ものすっごく嬉しかったの」
 ぱらぱらと残滓が空に残る。
 再び、彼の顔が青色になった。
「最初はね、本当に気になっているだけだったんだ。だけど、いつの間にか、好きになってた」
 彼は、ずっと私を見つめていた。
 私は、ずっと空を見上げていた。
「それまでに男のひとを好きになったことがなかったわたしは、そのひとを見ていると幸せなのは気づいていたけど、それが好きだという感情には気づかなかった。だから、ただ話してた。それが、学校に来る目的みたいに」
 思い出して、くすくすと微笑んだ。
「よかった。この気持ちに気づくことができて。恥ずかしいけど、もっと一緒に居たいから。そのひとに今、想いを伝えたいんだ」
 くるりと。
 私はようやく彼のほうへと振り返った。
 溢れるほどの笑みを浮かべて。
「だから―――」
 空色の花火が、上がった。
「聖也、くん」
 彼の名前を、初めて、呼ぶ。
「―――わたしと、付き合ってください」
 散らばる宝石は、考えられないほど、きれい、だ。
 反射的に、握っていた手をより強く握る。
 ええっと、と顔を背けながら口籠られてしまった。
 ほんの少し、その声で悲しくなって、彼の顔を見上げた。
「ダメ、かな……?」
「えっと、だな。……はあ」
 大きな深呼吸をする。
「―――夏姫」
「え――?」
 初めて、私の名前を、呼ばれた気がした。
「俺も、お前のこと、好きだから。ずっと一緒に、居て、欲しい」
 ぺこりと軽く頭を下げて、返事をしてくれた。
 きっと、これが私なりの幸せのカタチ。
 様々なカタチで描かれていくひとたちの幸せは、すなわち、ひとそれぞれだ。
 自分が幸せだから、相手も幸せだとは限らない。
 こうやって、ひとたちは、それぞれのパーツを組み合わせるために、それぞれの掛け替えのない幸せを求めて、時には躓いたりしながら、ただ、生きていく。
 それだけど。
 だから。
 大切なひとと。ずっと一緒に居たいひとと。
 同じ幸せを持つことは、なによりの倖せだと想う。
「聖也くん」
 もう一度。私は彼の名前を呼ぶ。
 もう片方の手。それが柔らかく彼の手を包む。
 ずっと探し続けていた、確かな証。
 温かくて。幸せで。
 こんな刻が、ずっと続いていけばいいなって、心の底から願う。
 手を解いて、拙い手付きながらもさらさらの髪を掻き揚げてくれた。
 澄んだ黒の瞳が、溶け込むことなく照り返している。瞳の中の私の姿は、今にも泣きだしてしまいそうだった。
「目、瞑ったほうが、いい、かな……?」
「好きに、してくれ」
 恥ずかしくて、なんにも返事はできなかった。
 それでも、うん、と頷いて、小さく微笑みながら目を瞑る。
 引き寄せられて、ゆっくりと、近づいていって―――

 空に、一際大きな花火が上がった。
 凍えてしまうような蒼い銀河の下、ひとつの幸せの花が咲く。
 七色の光を撒き散らす大きな華。
 祝福するかのように、二人の影が重なり合う瞬間を、淡く映し出していた―――

 ※

 ……あれ、ここ、どこだろう。
 私は目を開けるなり、自分の居場所が分からなかった。
 辺り一面真っ白。ケーキの中に埋まっていると思うほどだ。
 歩いても、機械的な足音しかしない。
 ここは、きっとゲームの中でゲームオーバーになってしまったひとが辿り着く場所だろうと勝手に予測した。
 そういえば、私、結局、どうなったんだっけ。……ああ、そうそう。あの蛇みたいな岩に連れ去られたんだった。
 ……懐かしい夢、見てたな。
 今思い出しても顔が真っ赤になる。
 あんな恥ずかしい台詞、きっと、もう言えない。
 でも……。
『こんにちは』
 きれいな声に吸い寄せられるように、私は声の元に振り向いた。
 いかにも悪役が着そうな黒いフードを纏った女性。
「イーターさん、ですか?」
『ええ、覚えていてくれたようですね』
 心底、嬉しそうだった。
 まるで、名前を呼ばれるのが久しいかのように。
「あの、ここは、どこなんでしょう。思うに、やられてしまって、他のひとがゲームをクリアするまでの待機場所みたいなものだと思うんですけれど」
 これ以上、反発しても、きっと痛い目には遭わないだろうと思って――だって、もうやられてしまっているのだし――普通に問うた。……こういうトコが、未波にヘンって言われるんだけど、ヘンなのかなぁ、私。自覚はまったくない。
『それに似たような場所ではありますね。ここは、あなたの夢の中に限りなく近いところです』
「夢に近い場所……?」
『ええ。あなたは、確かに攫われました。そのときに気絶してしまったので、この場所で待機していただくことにしたのです。ひとと話したい私の願望により形成された世界となります。したがって、おおよそは正解ですね』
「……あ」
『どうしました?』
「あ、あの、すみません。ここ、わたしの夢に近いところなんですよね? そ、その、わたしがどんなこと考えているのかとか、どんなことを夢に見ていたとか、あなたには筒抜けになっちゃうんですか?」
 あんな恥ずかしいところ、見られちゃってたらどうしよう。……わあ、私、おかしくなっちゃいそう。
『……いいえ、そんなことはありませんよ。しかし』
 嬉しそうな声はちょっとだけ変わった。
『表面上の心を読みとることはできますよ。あなたの心の海に浮かんでしまっている考えは、あるひとの過去を知ることですね』
「え……?」
 思い当たる節がある。
 胸が、高鳴る。
 その過去を、封印されていた過去を、知りたい。
 私の態度に気づかなかったのか、そのまま話を進める。
『……気づいていないようですが、確かに、そう思われているようです。その過去、あなただけに再生しましょう』
 彼女の姿が消えると同時に、雪よりも白い世界が変わっていく。
 ひとの過去を勝手に見るのはよくないこと。
 分かっていても、どうしても知りたかった。
 そうして、私は小説とかでよくあるような、過去の世界に降り立った。

 ※

 両親と一緒に出掛けた、最後のバスでの観光旅行だった。
 傾いた瞬間に、バスは機体を横転させ、逆さまに崖から落ちた。
 凄まじい衝撃が来るはずだった。
 けれど、目が開けたときに飛び込んできたのは。
 自分を挟み込むようにして抱いていた、両親の姿。
 潰れてしまいそうなほど強く抱かれて、まったくといっていいほど怪我はない。
 しかし、両親は致命傷だった。
 死傷者多数。交通事故としては、その年の最高の死者だったらしい。
 他の怪我人と共に、生きているひとたちは病院にすぐさま運ばれた。
 意識は回復せず、いつ死んでも、いつ戻っても、おかしくない状態だと医師に告げられたことを、ぼんやりと聞いていた。
 幼心ながらも、その言葉で両親の死がそれとなく理解できた。
 慌ただしく看護師や医師が病院内を駆け巡る。
 ひとつのところに留まっていることができるほど、彼らに余裕はなかった。余るほどの怪我人がいる。仕方がない。
 その中で、ただひとり、時が停まったように、ひたすら両親の隣に佇んでいた。
 親戚との関係は疎遠で、誰も来てくれなかった。
 独りだったけれど、生きる希望は、確かにある。
 そうなれば、また自分は平穏な生活を、独りではない生活を送ることができる。
 その希望がどんなに小さくても、微かにある以上、待つことしかできなかった。
 時は刻み続け、ゆるやかに、どんよりと流れていく。
 ふたりが起きるまで、寝ないと決めた。
 一週間。
 その長い間、閉じそうな目蓋を必死にこじ開け、食事もろくに取らずに待っていた。
 ただ、遠すぎる願いを信じて。
 廊下で叫んでいる女の看護師の声が、耳に酷く残っていた。
『また、大きな事故があったのよ―――』
 落ち着いていた病院に騒がしさが戻り、加速していく。
 そして、微睡んだ意識の中。
 耐えきれずに、数分眠ってしまった。
 ―――その間に。
 その、たった数分の間に。
 待っていた時間の中で、ほんの少しの時間に。
 両親は、この世から共に去った。
 本当に、いつの間にか。
 もしかしたら、巧くできた小説のように、なにか最期の言葉を遺したかもしれない。
 最期にどうなったかさえ、知らない。
 医師たちは新たな事故のせいで人手が足りず、前の負傷者に構っていることはできなかったため、誰も亡くなった時を知らない。
 ―――あのとき、眠らなければ。
 せめて、家族に見守られながら亡くなることができたはずなのに。
 それが、どうしても哀しくて。
 なにが哀しいのか判らないくせに哀しくて。
 ―――それから、満足に眠れなくなった。
 寝ようとして目を瞑ると、酷く胸が痛む。
 そのせいで、眠っていないのに眠くないという特異体質になってしまった。
 でも、それでも構わなかった。
 だって、それが背負わなければならない、永遠の罪なのだから。

 ※

 言葉とは、即ち、無限の刃である―――
 どこかで、そんなことを聞いたことがあった。
 些細なことでさえ、真実を告げられると、酷く胸が痛むのだ。
「お、前……。ひとの記憶、勝手に再生するんじゃ、ねぇ……」
 嘔吐感を堪えて、息遣いが荒いまま立ち上がる。
 今のは、俺の、記憶。
 今はもういない、両親の去り際の記憶。
 吼えている岩はおとなしくなった。
 頭の中で鐘を揺らされているかのように視界が歪む。痛くて仕方がない。物事を考えられるような状態ではない。
「……なんだよ、お前………」
 真紅の瞳から、砂が零れ落ちた。
「なんで、そんなに……」
 今までとは違う啼き声。……否。
「哀しそうなんだよ……」
 泣き声。
「ワケ分かんねぇよ……。自分で見せておいて、自分も見ておいて、なんで泣くんだよ……」
 同情でもなく、優しさでもなく。
 だが、ヤツの泣いている理由がなんとなく感じられた。
 しばらく頭の痛みも忘れて、その姿を呆けて見ていると、意識を切り替えたようにけたたましく啼いた。
「……クソったれ、ますます意味分かんねぇ……」
 落とした刀を構え直す。
 ヤツの涙は心を癒すのか、不思議と頭の痛みは消えていたことに気づいた。忘れたわけではなく、本当に消えている。
「同じ気持ちを抱いているとはいえ、容赦しないぞ」
 ―――夏姫は、返してもらう。
 矢の如く飛んできた。
 大きなステップで横に避け、両腕を高々と掲げて、振り下ろす。
 優希が言ってた。
 どんなものにでも、壊れやすい場所はあるのだと。
 それが、岩と岩を繋ぐ連結部。
 闇雲に力を振り回していても強くなんてなれない。どんなことに対しても同じことだった。
「お前にゃ、感謝してる」
 火花が破裂すると同時に、ヤツも悲鳴を上げた。
 真ん中の胴の辺りを遮断する。
 崩れるようにたくさんの岩の塊が落下を始め、階段の下の方へと転がっていく。
 最後のひとつ。
「……ありがとな」
 泣いてくれた顔の部分。
「同じ気持ちを持ってても、対立することがある。だけど、それがこんなにもつらいと思ったのは初めてだ」
 涙のような砂が、再び落ちていく。
「大切なことを気づかせてくれた。お前の本心がどうかは分からないけど、お前の泣き顔は俺の恐れている本当の素顔を見ているみたいだった」
 瞳の片方が消滅した。
「夏姫に服かけてくれたの、お前だろ。攫ったのは許せないし、どうして攫っておいて服をかけたのか分からないけどさ、ありがとう」
 もう片方も消えて。
「……お前も、独りだったんだ。俺も同じだったから言わなくても分かる。同じ気持ちを分かち合える仲間が欲しかったんだよな。俺と同じ。だから、いちいちひとりずつ攫っていったんだろ」
 徐々に形成する岩も剥がれて落ちていく。
「……痛いほど分かるんだ。幸せなひとたちを見て、自分の不幸さを分かってもらおうとして、悪戯したりするのが」
 もう、消えてしまう。
「俺に怒る資格なんてないさ。俺とお前は同じだから。ただ、次からは間違えないで欲しいと思うだけ」
 残りは少し。
「じゃあな。また、いつか、会いに来る」
 俺はヤツを憎んでなどいないし、恨みもない。
 笑って、ヤツが独りではないという証に、手を振ってやった。
 欠片は誇らしげに煌めいた気がした。

 ※

『……どうしました?』
 私は、過去を見て、泣いてしまった。
 彼女は私だけに過去を見せたから、自身は見ていないので理由が分からないらしい。
「なんでも、ないです……」
 涙を拭っても拭っても、滝のように溢れてくる。
 なにが哀しいのか、あまりに哀しすぎてよく分からない。
 地面に崩れるように泣き出してしまう。
 彼が過去を語りたくなかったのは、面倒くさいから話さなかったのではなく、真実が凶器となって彼の心を酷く抉るからだったのだ。
『……いいえ、それは、私のマスターも同じでしたから』
「え……?」
『いえ、なんでもありません。ただ、私にお礼を言ってくださった方がいましたから、その方に聞こえないでしょうけれど返しただけです』
「……お優しいんですね」
『どうしてです?』
「言葉が優しいんじゃなくて、想いが込められていましたから。……わたし、勘違いしていたみたいです」
 なんとなく、今まで彼女がやってきたことが分かったのだ。それを自慢げに語る必要はないし、今までのそうした言動の理由も分からないけれど、彼女の本当の姿を知っていればいいと思う。
 当の本人は私の言葉に困惑した様子だった。
 まだ、涙は零れてくるけれど、泣いたまま笑った。

 ※

 流れ星のように岩の破片が消えたあと、俺は夏姫の元へと向かった。
 その縫い目さえ見えない精巧な羽衣を纏う少女。
 すごく似合っていた。まるで、七夕祭りで出逢ったときの姿のように。
 その側に近づいて、でも、触れることはしなかった。
 あまりに安らかな寝顔だったけれど、どこか泣きそうな顔をしている。哀しい夢でも見ているのだろうか。
 規則正しい寝息。
 永遠に続いてしまいそうだった。
 なんとなく疲れて、柱に寄りかかる。灯された炎の数個は燻っているため、辺りは階段の下から微かに覗かせる水銀灯と、もう少しで消えそうな松明だけだ。
 中途半端に明るいわけではなく、澄みきった紅色へとほどけている。
 微妙な色合いは、どこか、昔の記憶を思い出させるが、それがなんなのかは分からなかった。
 淡い色で照らされた彼女を抱きすくめたいのを必死で堪えながら、彼女を優しく見守っていた。
 なんの見返りも求めていない。
 ただ、助けられてよかったから。
 本当にここに来てよかったと思い、同時に幼馴染みに深く感謝した。迷惑かけてばっかりの俺だけど、そんな俺と一緒にいてくれて幸せだ。
 今はもう失ってしまった幸せもあるけれど。その幸せと同じではないけれど。また違う幸せに巡り会えたから。
 あれこれ今までの自分を回想していると、彼女は小さな声を上げた。
「ん……」
 目蓋が微かに動いて、うっすらと目を開けた。
 彼女の寝顔を見るのは初めてで、見惚れてしまっていた。
「せいや、くん?」
「……うん」
「ど、どうして……?」
「救けに来た」
「だ、だから、どうしてみんなと一緒に行かなかったの?」
「……お前を助けるのに他の理由なんて構ってられねぇよ」
「ばか……」
「あ?」
 ……俺、初めて夏姫にバカって言われたかも。や、バカなのは自覚してるし、きっと夏姫もそう思ってるだろうが、それでも、夏姫に言われるのだけは嫌だった。
 首の下に手を入れて、上半身を抱き起こしてやる。
「もう……」
「な、なんだよ」
「団体行動は守るのが基本だよ」
「……は」
 ここまで規律なのか、こいつは。どこまでも状況を間違えている。
 彼女は、ふっと笑った。
「……でも、嬉しかった。約束を破ってでも助けに来てくれて、嬉しいよ」
 溢れてくる涙の粒。
 あれ、と気づく。彼女の頬には既に涙の線が引かれていた。
「ありがとう」
 くすくすと幸せそうに微笑まれて、なんて答えればいいのか分からなかった。
 その微笑みも、すぐに悲しみを帯びてしまう。
「……あのね、聖也くん」
「どうした?」
「……わたし、聖也くんの語らなかった過去、見ちゃったの」
「―――」
 ……アレを見られたのか。さっき俺を襲った記憶の再生が、夏姫にも流れ込んだらしい。いつかは語ろうとしていたけれど、あれほどの痛みを発すのは分かっていたから言えなかった。
「ごめんなさい……」
 ぽろぽろと真珠のような涙が溢れてくる。
 目を瞑って、必死に涙を零さないようにしていたが、なんの効き目もなかった。
「……いいさ。俺の父さんと母さんが亡くなったときのことだろ」
「うん……。聖也くん、話してくれなかったから……。話さない理由なんて、わたし、これっぽっちも知らなかったのに……」
 なるほど。その口調からして、彼女自身が俺の過去を見たいと望んだらしい。
 悪かったのは、俺だ。
 好きなひとと、大切なひとと、想いや出来事を共有したいと思うのは、至極一般的なことだと思う。
 俺は、独りでいることの痛みを夏姫に分かってもらいたくて、でも、思い出すだけで痛かったから言えなかった。
 夏姫は、俺が言わなくて、でも、知りたかったから過去を覗くことを望んだ。
「ごめんなさい……」
「いいって。教えなかった俺が……」
「ううん……。そのことだけじゃないの……」
「え?」
「―――わたし、聖也くんたちと違って、ずっと満たされていて幸せだった」
 安らかな口調で語る。
 まるで、絵本を読んでくれる今は亡き母親のように。
「独りでいる時間もなかったし、周りのひとたちもみんないいひとばかりで、不自由なことなんてなにひとつなかったもの。本当にわたしは幸せ者だと思う。だからね、余計に怖くなっちゃって……」
 その気持ちが俺には分からなかった。
「わたしの心は常に満たされていて、心の器は満杯なの。それは、他のひとの気持ちや想いが入り交じることは一切ないということと同じこと。……聖也くんたちは、未波や優希くんと同じ痛みを受けて、心にぽっかりと穴が空いてしまったんだよ。だけど、その空いてしまった穴をみんなで埋め合わせるように、お互いが心のなにより近い場所で重なり合ってる。……そこに、わたしが入ることはできなかった」
 俺は確かに孤独だった。
 だが、同じような痛みを味わって、最悪ともいえる絶望の気持ちを共有できる仲間がいた。
 空虚な心は彼らを簡単に受け入れた。
 心の外ではなく、内側の隙間を埋めるように。
「それを感じて、怖くなった。わたしは誰の近くにもいることなんてできないんだって思ったから……。それにわたし、こんなにもつらいことなんて知らずに、聖也くんに同情してた。ごめんね……。本当に分かって欲しい気持ちが分からなくて……。わたし、ぜんぜん、ダメ、だから……」
 温かな涙が頬を伝い、支えた腕に染みこんでいく。
 ……なんで、お前が泣くんだよ。
 ……泣かせたくなかったから、強くなったんじゃなかったのかよ。
 強さ以外に、なにが足りないんだ。
「わたし、きっとね、独りになりたかったんだと思うの。少しでも聖也くんの気持ちが分かるかなって思って。だから、ここに独りで来ちゃったんだ。ごめんなさい……。わたし、聖也くんに謝らなくちゃ。ごめんね」
「……俺も、お前に謝らなきゃな」
「え……?」
「独りにして、ごめんな」
 もう、絶対に独りになんてさせないから。
 どんな時も、必ず、側にいるから。
 二度と、お前を離さないようにするから。
 お前には、俺の側にいて欲しい。
「ひとの心の内側にいることは、誰でもできねぇよ。未波や優希が俺の心の内側にいると思ってるのは、お前の勘違いだ」
 傷の舐め合いは優しさではないことを知っている。
 だからきっと、俺たちは今まで巧くやってこられたのだろうと思う。
「同じ痛みを持ってるのは本当だけどな。そういう意味では、お前も独りであることを感じてたんなら、俺もお前も同じだよ」
 そんなことを思っていたことを知って、余計に護らなくちゃダメだって思った。
 思わせないくらい一緒にいたかった。
「もうひとつ、謝んなきゃ」
「まだ、あるの?」
 謝られるようなことはなにもしていないとでも言うような言葉だった。
 気づかないだけで、お互いにいっぱい謝らなくちゃいけないこと、してる。俺は特にだが。
「あのとき、お前に手が届いていれば、こんな気持ちにさせることもなかったのに。怖かっただろ」
「ううん、そんなことない。わたしね、哀しくはなったけど、ちっとも怖くはなかったんだ」
 ……優希に言われたことが思い出される。
 自分の抱く孤独と、夏姫の抱く孤独の意味は違うと。
 同じような体験をしていないから、孤独の価値が違うって。
 でも、夏姫は俺の過去を知った。なによりひとのつらさが自分にとってもつらい夏姫にとって、この出来事は印象を変えるほど強かったはずだ。
 それでも、彼女は言った。

「わたし、聖也くんがきっと助けに来てくれるっていう、確かな希望があったもの」

 涸れない涙にとても似合う笑い顔。
 あいつが言っていた、孤独の意味の違いは、これだったのだ。
 ……あの野郎、本当に、どこまでも先が見えるヤツだ。
「あなたを想えたことが、わたしにとって、唯一の誇りです―――」
「夏姫……」
 ……ああ、くそ。俺、今にも泣きそうだ。
「聖也くん」
「ん?」
「……今でも、ご両親のことは、罪だと思ってるの?」
「……ああ。ついさっきまではな」
 両親が亡くなったことが、つらくて思い出せなかった。
 死んだときに起きていられなかったことが、永遠に科された罪だと思った。
 でも、違ったんだ。
「……俺さ、あのバスに乗る前、父さんたちと動物園行ってたんだ」
「……うん」
「でさ。変な顔して笑うサルとか、大きな貝を腹で叩き割るラッコとか、七色の翼を広げるクジャクとか、色んなもん見て回って……」
「……うん」
「ガキだったから、自分と違う生活してる動物たち見て興奮して、疲れ果てるまで走り回って、一緒に弁当食べて、感想を言い合って……」
「……うん」
「エサあげて喜ばせたり、頭撫でたりとか……」
「……うん」
 どんどん思い出が溢れてくる。
 塞き止められた罪という壁が消えて、温かな思い出が押し寄せてくる。
 花びらが羽根のように舞って、今まで見たなによりもきれいな桜。
 懐かしくて心地よい、春風のような心の幕開け。
「……ただ、想い出すだけで、よかったのに、気がつけなかった」
「……うん」
 彼女はただ、優しく頷いてくれる。
 会ったこともない両親と俺との過去を、思い浮かべるように、いつの間にか、頭を撫でられていた。
「……例え、一度忘れられても」
「あ?」
「それでも、ずっとずっと我が子に想われているご両親は、幸せだね」
 彼女は、その幸せを表すかのように笑う。
 失った悲しみで覆われて、ずっと忘れていたけれど。
 その前に紡いだ温かな、温かすぎる想い出が、確かに刻まれているというのに。
 目に見えない大切なものを教えてくれた。
 形にならない、なにか。それが、なんなのか巧く口で説明できない。
 でも、それを確かに取り戻す。
 今まで、何度も「ごめん」を繰り返した。数え切れないほど墓石の前で呟いた。
 俺は、初めて彼らに謝った気がした。

「ありがとう……。二度と忘れないから」

 撫でられていた手を握って、寒くないようにそっと羽衣を掛け直してやる。
 いつかの七夕祭りのときに握った手と同じように手を繋いで。
 きっと、俺と夏姫は同じにはなれない。
 なにより近くにいたくて、けれど、できないことを知って、それを一生懸命に否定して駄々をこねるのは、どうやら昔の俺と変わっていないらしい。
 全部が同じになれないことを知っても。
 今でも、変わらないものもある。
「おやすみ。怖くなくたって、疲れただろ。ここにいるから、少し休め」
「うん、ありがと……」
 今までで一番幸せそうな微笑みを浮かべながら、彼女は目を瞑る。すぐに、再び安らかな眠りについた。
 いい夢を見ているのか、その顔はずっと笑ったまま。
 そんな満ち足りた顔を見て。
 久しぶりに、ゆっくりと眠れそうな気がしたから。
 願い事を心の中だけで呟いて。
 俺も、目を瞑った。

 ―――どうか、夢の中でも君に出逢えますように。

 ※

 入り江を越えた先。
 月が柔らかく照らす中、私は彼女を待っている。
 漣の音だけが世界に響いている。
 夢幻のような美しい世界。本当の世界で失われつつある世界。
 どうして、消えてしまったのか。こんなにもきれいなのに。
 ひとは形のあるものにすがることが多い。形などなくても、私に心はないけれど、心に刻むことができるのに。私とは、違うのに。
 正面の大きな崖の向こう側から、徐々に踏み締めるような足音が聞こえてくる。
『………』
「………」
 彼女は、私の姿を見るや否や、靴で砂を噛み、刀を鞘から抜いた。
 蒼い炎が纏われた刀身。まるで、彼女の意志の姿がそのまま現れたようだ。
 名前も知らないあの子は、初めてこの世界を訪れたときよりも幾分と強く見えた。私に対しての畏れもなく、突き刺さるような視線が全身を射抜く。
 身体的な強さは変わっていないだろう。ならば、なにが彼女を強くさせたのか。
 形あるものには限界がある。
 だとすれば、形のないなにかが越えられない壁を跡形もなく消し去ったに違いない。
『強くなりましたね』
 彼女に言うわけではなく、独り言を風に乗せる。
 対峙したまま動かない。
 緊迫とした中、一際強い風が小さな石を巻き上げた。
 かつん、と。
 刹那、両者は疾走を開始した。
 彼女の刀と自分の研いだ爪が衝突すると同時に、両者の逸らすことのできない視線が交錯する。

 ―――逃げるわけにはいかないんだから。
 ―――私こそ、負けられない理由があるのですよ。

 激しい火花を撒き散らしながらの鍔迫り合い。
 お互いに一歩も譲らない。それは、お互いの持つ想いのように。
 即座に翻された必殺の刃が、譲れないものを懸けて、羽根のように軽やかに重なり合う。
 きっと、それは失くしてはならないもので、大切なもの。

 独りきりの月が佇む静寂の海辺。
 掛け替えのないものを心に寄せて、最後の戦いは始まった。

 ※

「……もちろん、おまじないの意味だけじゃないんだけどなぁ」
 剣戟の音が遠くから鐘楼めいて聞こえてくる。
 背中を見送ったあと、ゆっくりと振り向いた。
 黒いローブを纏った女性。
 海風に煽られて扇のように広がっている。
『何時から、お気づきに?』
「最初からかな、なんとなく変だと思ったんだ。君に出会ったとき、影がなかったでしょう? 魔力の投影には影は映らないからね。今の君も偽物。君の意思を具現化したもの」
 自分たちだけの影だけが映っていた。
 景色だって鏡のように同じ部分が幾つかあった。
「次に、あのきれいな花畑。あそこにいた男の子二人組。あの子たち、君が創ったひとたちだよね。そう気づいたのは、君があの子たちをわざとらしく殺したとき。わざわざオレたちの人数分の刀で壊したことかな。オレらは丸腰なの、見ればすぐ分かるしね。いちいちヒントくれたし、絶対的な力を見せつけて、みんなが君に反抗できないように精神的に追いつめたんでしょう。ひとりで訪れた少女が死んでしまわないようにね、男の子たちを差し向けたんだ。それに、『精神的に追いつめられる』みたいな余計なことまで残していったし、そのせいで彼女たちはそうならないように精一杯になった」
 景観に歪さはない。
 最初から、すべてが壊れていたから。大きな異常の中に小さな異常が混じっていても気づかれにくい。
「密林。君は名前も知らないオレたちの強さを知らなかった。予想以上のスピードで来られてしまったから、ひとりだけ残させるために、次の場面へと進む道を無理やり閉ざすことしかできなかった。そこで、大体の人間は気づく。これは、次のステージに進むたびにひとりずつ削っていくものだと。不都合だったけど、逆にそのことが気づかれやすくなって好都合だった」
 心に深く刻まれる。
 先入観はなかなか拭えない。
「鍾乳洞。さらにそれで精神的に追いつめる。生死が絡む戦いは少ないし、仲間との絆が失われていくのを見て、どんどんと削れていく。彼女はあの時点でひとりになっていたら、本当に泣き崩れて進めなくなっちゃっただろうね。あのとき出した条件はそのため。大体、君の考えと絡繰りが読めてたし」
 本当に、君を護れて、よかった。
『最初からすべて計算の内ということですか。ならば、今までの行動も演技ですか?』
「や、それは違うよ。最初からすべてを知って、最後まで予測したオレだって、それでもそれは予測でしかないからね。確実といえる未来はないんだから、未来を頭だけで処理することはできないんだよ。途中で聖也とケンカしちゃったしね」
 本当に、あのときは自分が自分でなくなりそうだったしなぁ。頭に血が上りやすいのは、なにも聖也だけじゃないのだ。
「君のように、未来を想い描くのは大切なことだよ。夢を持って生きるのは大事なことだし、きっとそうするのが当たり前なんだ。目標を立てないと生きている意味さえ失いそうになってしまうしね。でも、それをひとに押しつけるのはどうかと思う」
 自分だけに限らず、ひとはそれぞれに夢や目標があって生きている。
 それを他人に勝手に決められる権利など、どこにもない。
「オレたちの未来を、勝手に決めるな。……それだけー」
 強い口調のあと、これ以上、あの子をいじめないように口調をいつものに戻す。……シリアスな口調は疲れるんだよね、正直。
「……そうして、すべては終わり。あとはひとりだけにして、最後の本物の君と戦う。自分の全力を以て叩き潰す。永遠に終わらない。だったら、なぜ、永遠に終わらないように仕向けたのか」
 動機。
 最後まで分からなかったけれど、失いかけていた記憶を手繰り寄せて思い出した。
「……君―――独りだったんでしょ?」
 確信を持ってそう言える。
 それが分かった。
「―――真実の前に、ひとつ、告げておこう」
 君が知らなかったもの。
 知らなければ独りになってしまうもの。
「オレの名前は、神月優希。君を創ったマスターである神月優護の実の孫だ」
『え――?』
 もの本質を表すのに名前は必要ない。それがそれであるだけで充分だ。しかし、あとに名付けられた名前を呼ばれると、その名前があるだけで幸せであると思う。
「最初から知ってたんだ、君のこと。君の名前がイーターであること、本当の君は優しいこと、じーちゃんが亡くなって君が独りになってしまったこと。教えてくれなかったけど気づいてた」
『―――』
「独りが、怖かったんだね。入ってきたひとと遊んでいれば、独りであることを紛らわすことができるから。オレも同じだから、分かるんだよ」
『あなたと、私が、同じ―――?』
「……じーちゃんが亡くなって独りになったのは、君だけじゃないから」
『あ―――』
 彼女は狼狽する。
 顔も知らないうちに死んでしまった両親の代わりに育ててくれた祖父が亡くなったとき、この世のものとは思えない絶望を感じた。
「それでも、強くならなくちゃならなかった」
 でも、ボクは救いがあった。
 幼馴染みがいて、そのひとたちもまた、ボクとは違った孤独感を抱えていて、それ故にとても近しい関係の仲間たちがいた。
 でも、彼女は違った。
 彼女には、彼しかいなかった。
 どんな絶望もひとりで抱え込むことしかできない。誰かに語ることも共有することもできない。どんな幸せも悲しみもひとりでしか思えない。
 それでも、代えられない理由がある。
 ボクが独りで、未波の両親が仕事に出かけたとき。
 彼女は泣いて、ボクの家を訪ねてきた。ひとりの夜は怖くて、みんなと一緒にいないと眠れないのだと。
『……あなたは、賢者ですか?』
 静かに彼女は問うてくる。
 それを、笑って否定した。
「いや、そんな大層なひとじゃないよ。それにね、もし、オレがどんなに力を持っていても、オレは賢者にはなれないんだ」
『どうしてです? 賢者とは賢き者。多少の不都合があったとはいえ、あなたには相応しいと思いますが』
「そっか……。うん、なら、そう思ってくれてるんなら嬉しいな。……でもね、やっぱり違うんだ」
 オレの大切なひとは、まさにそうだった。
 もうそのひとはオレの側にいないけれど、確かな軌跡を遺してくれた。
「賢者に必要なのは、魔法でも頭の良さでもない。ただ、ひとのために、惜しみない努力を積み重ね、思考できるひと。それができるなら、全員賢者なんだ」
『あ―――……』
 彼女は、はっと息を呑み込む。
 ……やっぱり、じーちゃんから同じような話を聞いていたらしい。
 別に真似したわけでもない。というか、そんな話を彼から聞いたことはなかった。
 祖父はよく言っていた。「お前は私に良く似ている」と。
 同じような台詞回しを好み、同じような思考を持ち、同じような答えを導き出すと思っただけだ。
「だから、オレは賢者なんかにはなれない。物事ばかり優先してしまって、それが例え正しかったとしても、誰かを傷つけていかなければ前に進めないんだからね。誰かの想いを蔑ろにすることだってたくさんあるから。オレなんかよりも、よっぽど聖也や未波や夏姫さんのほうが賢者だよ。ほら、大切なひとを助けるか助けないかでケンカしてたでしょ。あのとき、未波は口には出さなかったけど、きっと、内心ではオレのことを否定してたんだと思う。そんなんじゃ、賢者になんかなれないよ」
 でも、それでもよかった。
 みんなに嫌われたって、迫害され続けたとしても。
 自分にとって大切なひとたちを想えるだけで、とても幸せなのだから。
「着飾る称号なんていらない。オレを表すのはオレだけで充分だよ」
 どんなに迷惑だったとしても、譲れないものがある。
 それは、いつかの想い出。
「だからあの日、ボクはオレに誓いを立てた」
 自分自身に立てた、変えられない刻み込んだ誓約。
 もう、二度と泣かさないように。
 独りなのは自分だけではなく、君も同じだから。
 独りだとしても、独りが二人になれば、独りでなくなるから。
「君とオレが同じだとはいえ、それでも自分の想いを譲ることはできない」
 今まで押し込んでいた自らの意志。
 心の中にしまい込んで、決して開くことのなかった箱を押し広げた。
 家に帰ると決めた。
 その時に描いた家は。
 祖父のいた想い出が詰まった自分の家ではなく。
 独りではない、拙い願望が具現化した、夢が散りばめる未波の家だったのだから。
 必ず、また出逢えると約束できた。
 ……似ているからか、彼とはよく気があった。
 どんなに尊敬していて、彼がオレの目指す唯一のひとだとしても。
 独り言のように呟いた。
「じーちゃん。……いや」
 オレの目指す向こう側の、さらにその向こう側で待っているような遠いひとであったとしても。
「神月、優護」
 ひとりのひととして。
 未波を傷つけるのなら―――
「―――あなたでさえも、超えてみせる」
 強さなんかいらない。
 幸せに寄り添えれば、それだけでいい。
 しかし、それを護るためには強さが必要なのだ。
 力でもなく、ただ、ひとを想うための強さが。
「でもね、なるべく、戦いたくないからさ。ここから出してくれないかな?」
『いいえ、その必要はありませんよ』
「―――」
 まだ、戦う気のような言葉。無意識に刀へと手が移る。
 そんな自分とは裏腹に、彼女は微笑んだ。
『ほら。もう、終わりです』
 差し出した腕の先に、映る映像。
 未波が泣きそうでありながら笑っている、不思議な顔を覗かせる写真のようだった。

 ※

 ……いや、しかし、彼の言ったことは少し間違っている。
 だって、物事ばかり優先してしまうのを悩み、誰か大切なひとのためにそれを必死で解決しようとする。
 それは、ある意味、あなたの言った賢者と同じ意味ではないだろうか―――
「どうしたの?」
『いえ、なんでも。……それよりひとつ、訊きたいことがあるのですけれど』
 剣戟の轟きが数度聞こえただけで、私は一瞬にして倒されてしまった。
 なにが、ひとをそこまで強くさせるのか。
 今でもそれは分からない。
「なに?」
 砂浜に横たわる私の隣に、彼女は足を伸ばし彼方を見つめながら言った。
 どこか、詩を作っている最中の詩人を思わせた。
『ひとを幸せにするとは、何ですか?』
 マスターに言われたこと、私には理解できない。
 どんなに知能が発達していても、私はひとではないのだ。感情だの想いだの知るわけがない。
「……うん、浅いようで深い質問ね。……そうね、わたしが言うのもなんだけど、幸せというのはひとそれぞれじゃないのかな。わたしの幸せとあなたの幸せは違うでしょ」
『私には、私の幸せというものが分かりませんから』
「楽しいことも?」
『ええ。私は生まれからして、あなたたちとは相反する者。……いえ、物。それらに感情というものはないでしょう?』
「それなら、なんで、あなたはわたしたちと戦おうと思ったの?」
『それは―――』
 ……どうしてなのだろう。
 その、埋まっているようで空っぽな失念に気がついた。
 マスターの言ったことは、子どもたちを幸せにすること。
 その幸せの中身が分からないと言っているのに、どうして私は争いを始めてしまったのだろうか。
「……わたしも学者さんじゃないし、物質に命を授けるっていうのが、よく分かんないけど、物だからとか、魔法使いだからとか、人間だからとか、楽しく笑ったり、幸せに思ったり……。そんな気持ちに、きっと種族なんて関係ないよ」
 砂を軽く振り払って立ち上がる。
 水を掬い上げるように手をかざし、夢に満たされた手の平を振りまいた。
 月に願いを託す、もの儚げな少女のようだった。
「分かんないコトだらけだもんね。わたしも、みんなも。そして、あなたも」
『私も……?』
「うん。幸せがなにか、分からないんでしょ?」
 きっと、争いを始めたのは、知らずうちに私のココロが幸せを欲したからだと思う。
 この世界へと誘い、ゲームをする。ゲームは楽しいものだから。きっと、相手も幸せに遊んでくれるだろうと思った。
 彼女の言うとおりならば、私と彼女たちは、決定的な差があれど、同じなのだ。
 まったく逆のものは、必ず、背中合わせになっているのだと、初めて知った。
 希望と絶望。
 楽しみと哀しみ。
「だったら、まず、お友達」
『……え?』
「わたし、あなたと友達になりたいな。ダメ?」
 蒼い月の光を背に、彼女は微笑んだ。
 私のココロは、その言葉を素直に受け入れた。
『……はい、お願いします』
 なにもかも初めてのことばかりだ。
 この迷宮を抜けられたこと。
 彼女たちと出会ったこと。
 そして、友達ができたこと。
 独りでいれば、誰かが助けてくれるかもしれないという希望がある。
 その希望は眩しすぎて私には見えなかったけれど、常に輝くココロはそれをずっと見つめていたらしい。
「うん、なら、わたしの名前から」
 彼女は右手を胸に当て、ゆっくりと貴婦人のように礼をする。
 私と苛烈な戦いをしたとは思えないほど、女性らしい雰囲気が漂っていた。
「わたしの名前は、儚絵未波。あなたは?」
『私の、名前は、イーター。誰よりも尊敬するマスターがつけた、誇りの証の名前。食人鬼というのは、子どもたちに幸せを食べさせてあげること。それが、私の使命であると共に、氏名ですよ』
「……お上手」
 くすくすと私たちはさざめく音に共鳴するかの如く、小さく笑った。
 月は、いつまでも水面に揺れていた。

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